越境者が描くアジャイルな未来|政策現場から見る『官民共創のイノベーション』vol.3
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生成AI、気候変動、サイバーリスク――。社会を取り巻く不確実性が高まるなか、国家や企業の「ルールづくり」にも大きな転換が迫られています。これまでのように、政府がビジネスモデルを業界ごとに区切って、トップダウンで一律に監督するガバナンスでは立ち行かなくなるでしょう。
そうした時代背景のもと注目を集めているのが「アジャイルガバナンス」という考え方です。ソフトウェア開発の世界から着想を得て、試行錯誤を繰り返しながら社会や技術の変化に柔軟に対応していくガバナンスのスタイル。この“つくりながら治める”新しい統治のかたちは、いかにして制度に落とし込まれ、社会に実装されていくのでしょうか。
『官民共創のイノベーション』シリーズ3回目となる本コラムでは、弁護士として出向した経済産業省で「ガバナンス・イノベーション政策」を主導し、現在はスマートガバナンス株式会社の代表取締役CEOとして実務にも携わるとともに、京都大学大学院法学研究科 特任教授の顔も持つ羽深宏樹氏にインタビューを実施。官民の垣根を越えたガバナンスの未来像を探っていきます。
羽深宏樹
スマートガバナンス株式会社の代表取締役CEO
東京大学法学部・法科大学院、スタンフォード大学ロースクール卒(フルブライト奨学生)。森・濱田松本法律事務所、金融庁、経済産業省等を経て現職。経済産業省在籍中に、同省が公表したアジャイル・ガバナンスに関する報告書の執筆を主担当。2020年、世界経済フォーラムによって「公共部門を変革する世界で最も影響力のある50人」に選出。主著に『AIガバナンス入門 — リスクマネジメントから社会設計まで』(ハヤカワ新書)。
池田陽子
経済産業省 競争環境整備室長 経済産業研究所コンサルティングフェロー
2007年に東京大学卒業後、経済産業省に入省。専門分野は、イノベーション政策、ルール形成、グローバルガバナンス。内閣官房では政府全体のスタートアップ政策を統括。近著に『官民共創のイノベーション 規制のサンドボックスの挑戦とその先』。経済産業研究所コンサルティングフェローとしても活動。これまで携わってきたスタートアップ政策、対GAFAのデジタルプラットフォーム規制、出版等の功績を評価され、2024年、Forbes JAPANの「Women in Tech」に選出。なお、本連載において、事実関係に関する記載以外の部分は、経済産業研究所コンサルティングフェローの立場による。
INDEX
・ガバナンスに“アジャイル”が必要な理由
・ガバナンスは誰が担うのか?分散型の時代の設計図
・アジャイルガバナンスはAI業界だけの話ではない
・越境するガバナンス人材──複数の視座を行き来する意味
・アジャイルガバナンスを社会に実装するには
・ガバナンスは、誰かが決めるものから、みんなで磨くものへ
ガバナンスに“アジャイル”が必要な理由
池田:羽深さんは「アジャイルガバナンス」というコンセプトをいち早く世界に先駆けて政策提言されましたよね。もともとはIT業界の開発手法に使われていた「アジャイル」という考え方を、ガバナンスに応用したのはなぜだったのでしょうか?
羽深:時代の変化に対応するためです。今の社会って変化が速いですよね。たとえば生成AIが登場してから、たった数年で仕事のあり方は大きく変わりました。また、単純な経済成長だけでなく、サステナビリティのような公的価値への貢献、人権といった人間の本質的価値への配慮など目指すゴールも多様になっています。一方で、法規制や責任の仕組みって、何十年も同じままでアップデートされにくいのが現状です。しかし、そのままでは社会の側がどんどん変化してしまい、ルールのほうが追いつかなくなります。
池田:制度が現実に追いつかないと「ルールがあるのに守られない」「ルール自体が使えない」といった問題が起きそうですね。そうならないために、制度の側も変化に対応していく必要があると。
羽深:そうです。ソフトウェア開発の世界でも過去は、「ウォーターフォール」という、最初に全部決めてから一気に作るやり方が主流でした。しかし、それでは実際に開発を始めてから予定外のことが起きると、柔軟に対応できません。そこで、まず小さく作って、開発を進めながら柔軟に改善していく「アジャイル開発」という手法が生まれました。ガバナンスにも、同じような柔軟性が必要だという考え方が、2018年頃から世界経済フォーラムやOECDなどの国際的な団体でも指摘されるようになっていました。そのような考え方をいち早く体系化したのが日本だったというわけです。
池田:一般的にガバナンスというと「法令」や「規制」といった、堅くて動かしにくいものというイメージがあると思います。そこに柔軟性を取り入れるのがアジャイルなんですね。
羽深:もちろん、全部を柔らかくすればいいわけではありません。たとえば安全や人権といった価値を実現するために、しっかりした「ハードロー(法的拘束力のあるルール)」は必要です。しかし、それをどのように実現していくかといった運用の仕方や、報告の仕組みなどは、「ソフトロー(ガイドラインや推奨基準)」として柔軟に見直していく。そのバランスをとるのがアジャイルガバナンスの発想です。
ガバナンスは誰が担うのか?分散型の時代の設計図
池田:アジャイルガバナンスというと、技術の進化に合わせて「どうルールを変えるか」という話が中心になりがちですが、実際にそれを“誰が担うか”も重要な論点ですよね。従来のように「政府が決める」「企業が従う」という構図では立ちいかない時代になってきたと思います。
羽深:おっしゃる通りで、もはや単一のプレイヤーがすべてを正しく予測してコントロールするのは無理があります。たとえば、生成AIのリスクを管理するとしても、政府だけでめまぐるしく変わる技術動向を把握し、ルールを決め、監督するなんて到底できません。むしろ、現場で技術を使っているプレイヤー自身が、リスクを評価し、運用し、改善するプロセスが必要なのです。
アジャイル・ガバナンス・モデルの全体像のイメージ
【出典】アジャイルガバナンスの概要と現状(経済産業省)
池田:つまり、これまでの「政策の受け手」が「担い手」になる、ということですね。企業や技術者が、自らルール形成に関わっていくと同時に、アジャイルなプロセスを回していく必要があると。
羽深:そうです。最近では「マルチステークホルダー・ガバナンス」と言い、政府・企業・市民・専門家・ユーザーなど、多様な主体が対等に関わって、ガバナンスを一緒につくるという構造が求められています。ここでは、“説明責任(アカウンタビリティー)”や“情報共有”がとても重要になってきます。
池田:お話を聞いていて、世界でもっとも売れた国際標準といわれるISO9000(品質マネジメントシステム)を思い浮かべました。企業がPDCAサイクルを回して、品質の継続的な向上を図ることを目指すものです。顧客にかぎらず、従業員、株主などさまざまなステークホルダーとの関係性も考慮されます。
羽深:まさにアジャイルの考え方ですね。設計・運用・検証をひとつのサイクルにして、アップデートし続ける。そう考えると、ガバナンスも「制度」というより「プロセス」なんだと思います。
池田:逆に言えば、そのプロセスをうまくデザインできる人材が、今後のガバナンスにおいて非常に重要になると。
羽深:そうですね。制度の表層だけでなく、それを回していく“仕組みそのもの”に対する感覚や経験値が求められる時代になってきているのだと感じます。
アジャイルガバナンスはAI業界だけの話ではない
池田:新しい考え方である「アジャイルガバナンス」は、対象も先端分野である、生成AIやデジタルサービスなどに限った話だと思われがちです。もっと広い産業領域でも関係あるのでしょうか。
羽深:確かに、アジャイルガバナンスは先端技術が関わる領域でより生きるものなので「デジタル業界だけの話」と思われがちです。しかし、実際にはもうあらゆる産業においてテクノロジーが深く入り込んでいます。たとえば自動車や製造業、エネルギーといったいわゆる“重厚長大”な産業でも、AIやIoTの導入は当たり前になってきました。
つまり、技術と社会の接点はすでにあらゆる場所に存在していて、それに対応するガバナンスもまた、すべての業界に求められているということです。もう“AIガバナンス”という狭い言い方ではなくて、「ガバナンス全体の再設計」が必要な段階に入っていると考えています。
池田:私たちのような、政策を考える側に限らず、企業の経営層や事業開発担当者にとっても無関係ではなくなりますね。むしろ、変化に柔軟に対応できるかどうかが競争力を左右する時代になっていると。
羽深:そうです。さらに言えば、これは経済だけの問題ではなく、人権や安全保障といった価値とのバランスをどう取るかという、より大きなテーマでもあります。ルールが硬直していると、そのどれも守れなくなってしまう危険がある。だからこそアジャイルな仕組みが求められているわけです。
池田:社会的な信頼を築く上でも、「ルールがある」ことだけでなく「ルールをどうアップデートできるか」が問われる時代になってきましたね。
羽深:ガバナンスは、もはや“守る”ものではなく、“つくる”ものへと変化しています。その変化に対応できる企業や組織こそが、これからの社会で持続可能なプレイヤーになっていくのだと思います。
越境するガバナンス人材──複数の視座を行き来する意味
池田:羽深さんは現在、企業経営、法曹、アカデミアと、複数のフィールドで活躍されていますよね。そうした“越境的”な活動スタイルは、どのような意図や戦略で形成されてきたんでしょうか?
羽深:正直な感覚としては、戦略というより「やりたいことをやらせていただいている」という感じです。大学の研究では、「特定の組織」の「いま」ではなく、「社会全体」の「これから」を考え、自分の思い描く世界像を探求することができます。一方、自分自身が企業を経営しながら、具体的なAI実装プロジェクトなどに関わると、組織全体としての情報フローの確保や最終的に特定の価値判断を行うことの難しさなど、リアルな課題から多くを学ぶことができます。
池田:同時に「社会構造の設計」と「現場の実務」という二つの視点を行き来する感覚って、ガバナンスに関わる上でとても大事な気がします。
羽深:そう思います。研究者として「目指す世界」の視点を、実務家として「現実世界」の視点をもつことで、その双方から距離を縮めていくことに大きなやりがいを感じています。また、経産省で「ガバナンス・イノベーション政策」に関わったときには、エンジニアリング・法律・政治・経済・会計・経営など、それぞれの専門領域から見える世界に意外なほど多くの共通点があることを感じました。そのときに、「これを接続できるインテグレーター(統合者)が必要だ」と痛感したんです。
池田:その「インテグレーター」が、まさに“越境人材”ということですね。
羽深:そうですね。現場から得た学びを政策に反映し、政策の方向性を企業の経営に生かす。複数の視点を持ちながら、それぞれの世界に橋を架ける。それが越境人材としての役割だと思っています。
池田:すばらしいですね。ガバナンスの世界でも、そうした「構造を行き来する視点」を持つ人がどれだけいるかが、今後の制度設計や社会実装のカギになるかもしれませんね。
アジャイルガバナンスを社会に実装するには
池田:思想としてのアジャイルガバナンスはとても魅力的ですが、実際に社会に実装していくとなると、課題も多いのではないでしょうか。制度や慣習が根強く残る中で、どうすれば仕組みを広げていけるのでしょうか?
羽深:おっしゃる通りで、思想と実装のあいだにはギャップがあります。とくに日本では「ルールを一度決めたら変えてはいけない」と考えている人も多くて。それでも現実が先に動く現在、制度そのものも「アップデート前提」で再設計する必要があります。実は制度は、法律や規則の「内容」だけではなくて、「それをどう作るか・見直すか」が本質です。たとえば、ある業界のプレイヤーが「こういうリスクがあるから、こういう運用をしている」という知見を、政策にどう取り込むか。これには、現場→政策→現場という循環構造を制度に埋め込むことが必要です。
池田:実際に私たちも政策を設計する際、「試行的に走らせて、そこから制度化する」というプロセスをとることがあります。「規制のサンドボックス制度」もその一例ですね。「まずやってみる」の精神で、既存の規制の適用を受けることなく、AIやブロックチェーン技術などを使った新しいビジネスモデルの実証実験を行い、事業化や規制改革を後押しするものです。
羽深:とても理にかなっていると思います。最初から完璧を目指すのではなく、走りながら作る。アジャイルガバナンスとは、まさにそういう“制度のつくり方”自体をアジャイルにすることなんです。
池田:そのためには、政府だけでなく企業や業界団体、さらには市民までも含めた“協働”が求められますよね。
羽深:トップダウンだけではなく、ボトムアップと横のつながりをどう仕組みとして持つか。そこにチャレンジできる国や企業が、これからの社会の「ガバナンス競争力」を高めていくと感じています。
ガバナンスは、誰かが決めるものから、みんなで磨くものへ
池田:ここまでアジャイルガバナンスの構造や実装についてお話を伺ってきましたが、羽深さんは民主主義との関係についても深く考えていらっしゃいますよね。
羽深:私たちはつい「ガバナンス=制度」と捉えてしまい、制度の話に終始するきらいがあります。しかし、本当に重要なのはその土台に民主主義があることです。つまり、「誰が意思決定に関与するのか」「どうやって合意形成を行うのか」という部分。ここを見直さずに制度だけを変えても、根本的な変化にはなりません。
池田:制度設計と市民参加はセットで考えなければならないということですね。
羽深:特に今は、AIのように専門性が高くスピードも早い領域で、誰でも直感的に「Yes/No」と言える時代ではありません。だからこそ必要なのは、情報の共有・熟議・説明責任を通じて、市民も含めて“考える仕組み”をつくることなんです。
池田:“対話”が前提になる社会の設計ですね。
羽深:そうです。ガバナンスって、批判したり従ったりするだけのものではなくて、本来は自分たちが関わるべき対象なんです。私たち一人ひとりが、どういう価値を守り、どう社会を運営していくかという視点を持つことで、ガバナンスは初めて意味を持つと思っています。
池田:それはまさに、“当事者になる”ということですね。「制度」や「ルール」の策定は遠い存在に見えがちですが、自分の関与で形づくられるものだと気づくと、見え方が変わってきます。
羽深:制度やルールを決めるのは政治家や官僚だけじゃない。現場で働く企業人や起業家も、時には市民としての視点を持ち、意思形成のプロセスに関われるはずです。そうした多様な立場の人が関わり合いながら社会を動かしていく――これこそが、これからのガバナンスの在り方だと思います。