「自然を再現する技術で、海を守る」TNFDを見据えネイチャーポジティブを事業に変えるイノカの挑戦
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「ネイチャーポジティブ」日本語では「自然再興」と訳されるこのキーワードは、気候変動対策の文脈で語られる「カーボンニュートラル」と並び、企業の持続可能性を測る新たな軸として台頭してきた。単に自然環境への負荷を減らすのではなく、自然に対してポジティブな影響を与えるという趣旨だ。
こうした潮流の中、自然資本との向き合い方が企業にも問われるようになりつつある。TCFDに続き、TNFD(自然関連財務情報開示)のフレームワークも整備が進むなど、ルール形成も加速。日本企業の中でも、自然との関係を事業機会として捉え直す動きが始まっている。
その最前線で事業を展開しているのがイノカだ。サンゴ礁や干潟といった海洋の自然環境を、都市のラボ内で再現する「環境移送技術」を武器に、企業の環境評価や製品開発を支援。科学的データを起点に、海洋資源の保全と利活用を両立させる独自のビジネスモデルを展開している。
自然を“守る”だけでなく、“活かす”ことで産業を生み出す。「収益につながるサステナビリティ」を掲げる同社のCOO・竹内四季氏に、ネイチャーポジティブの本質と事業としての可能性について話を聞いた。

竹内四季
株式会社イノカ 取締役COO
1994年生まれ。鹿児島県出身。東京大学経済学部卒業。学生時代は障がい者雇用に関する先進企業事例を研究し、社会起業家を志す。人材系メガベンチャーでの営業経験を経て、2020年2月にCOOとしてイノカに合流し、事業開発・パブリックリレーションズ全般を管掌。
ポイント
・ネイチャーポジティブは「負荷を減らす」から一歩進み、自然にプラスの影響を与え回復を促す発想。自然を“守るだけ”から“活かす”へ転換する。
・TCFDに続きTNFDが整備され、企業は自然資本への依存・影響・リスク・機会の開示が求められる流れ。開示が投資判断と企業行動を変えていく。
・自然資本はCO2のような共通指標がなく、価値の定量化が難しい。生態系サービスなどの枠組みで“見えない価値”を可視化する必要がある。
・イノカは海洋環境を都市の研究施設で再現する「環境移送技術」を開発。条件を揃えた試験で、化学物質や製品の生態系影響を科学的に評価できる。
・サンゴ礁は生物多様性の基盤で、創薬・食品・化粧品など産業応用の可能性も大きい。ルール整備とデータ蓄積で「収益につながるサステナ」を狙う。
INDEX
・「ネイチャーポジティブ」とは?自然はもう守るだけのものではない
・開示義務が変える企業行動——TNFDが広げる“自然資本”の考え方
・“見えない自然”をどう測る?定量化できない価値と向き合う
・イノカが発明した「環境移送技術」とその活用
・「サステナビリティ」が収益につながる?新たな産業の可能性
「ネイチャーポジティブ」とは?自然はもう守るだけのものではない
——まずは「ネイチャーポジティブ」という考え方について教えてください。従来の「環境保護」とはどのように違うのでしょうか?
竹内:ネイチャーポジティブとは、自然に対して単に「悪影響を与えないようにする」ことではなく、「ポジティブな影響を与えていこう」という考え方です。これまでの社会は、自然資本を搾取し、それによって経済成長を遂げてきましたが、その結果として自然環境が大きく損なわれました。
ネイチャーポジティブは、その前提を見直し、自然と共生しながら回復させていく方向への転換を促すものです。

——そもそも「自然」とは何を指すのでしょうか?
竹内:「自然」という言葉には、実はかなり幅広い解釈があります。たとえば、我々が普段目にしている里山や水田などは、人の手が入ってできた「二次的自然」ですが、そこにも多様な生態系が存在しています。
そのため、ネイチャーポジティブは「原始の自然を守る」といった限定的な話ではなく、人の営みと共存しながら成り立っている自然全体に目を向けていくことが重要だと考えています。
——「守る」のではなく、自然をより良い方向に「変えていく」というアプローチなのですね。
竹内:これまでは、自然環境への影響を最小限に抑える「ネイチャーニュートラル」が目指されてきましたが、ネイチャーポジティブはその一歩先を行く概念です。事業活動の中に自然への貢献を組み込み、経済と自然の好循環をつくっていく。そこにこそ、新しい価値やビジネスの可能性があると私たちは考えています。
開示義務が変える企業行動——TNFDが広げる“自然資本”の考え方
——企業がネイチャーポジティブに取り組むうえで、大事なポイントを教えてください。
竹内:国際的な枠組みであるTNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)に沿って取り組むのがおすすめです。これまで、気候変動に関してはTCFDという枠組みがあり、金融や企業活動において温室効果ガスの排出量や気候リスクが重視されてきました。
TNFDは、その自然資本版とも言えるもので、企業が自然環境にどれだけ依存し、どのような影響を与えているかを評価・開示するための仕組みです。2023年に最終提言が出され、今後はグローバルで本格的な導入が進むと見られています。
——気候変動に続き、自然も「経済活動に影響を与える資本」として扱われはじめたのですね。
竹内:そうですね。気候変動に対して企業が開示を進めるようになったことで、資金の流れや投資判断が変わりました。同じように、自然に関する情報も開示されるようになると、事業リスクや機会の捉え方が大きく変わってくると思います。
実際に、日本企業のTNFDへの関心は非常に高く、開示を表明している企業数は世界最多の210社*にのぼっています。
*参考:The Taskforce on Nature-related Financial Disclosures (TNFD)『List of Adopters』

——TNFDでは、具体的にどのような項目の開示が求められるのでしょうか?
竹内:LEAPアプローチと呼ばれる4つのステップに沿って、自然との接点や影響、リスク、機会を整理していくのが基本的な考え方です。LEAPとは「Locate(発見する)」「Evaluate(診断する)」「Assess(評価する)」「Prepare(準備する)」の頭文字のこと。
自然との接点、自然との依存関係、インパクト、リスク、機会など、自然関連課題の評価のための統合的なアプローチとして開発されました。ただ、温室効果ガスのように定量的な共通指標がまだ整備されていないため、まずは定性的な開示からスタートする企業が多い印象です。それでも、こうした取り組みを通じて、企業が自然とどう関わっているかを可視化することが第一歩になります。
——自然資本の「リスク」だけでなく、「機会」という点も強調されているのが興味深いですね。
竹内:まさにそこが重要なポイントです。自然に配慮することで新しい事業機会が生まれる、あるいは地域社会との連携が生まれる、といったポジティブな側面を捉え直すことが求められています。単なるコストではなく、事業の競争力や新たな価値創出につながるという発想が、TNFDの本質にあると考えています。
“見えない自然”をどう測る?定量化できない価値と向き合う
——TNFDの開示においては、どのような課題があるのでしょう。
竹内:自然の価値を「定量的に測ることの難しさ」があります。気候変動の場合は、CO₂排出量という明確な指標がありますが、自然資本は非常に多様で複雑です。例えば「サンゴ礁がもたらす価値」は、魚の産卵場であること、観光資源になること、波を防ぐ役割を持つことなど、さまざまな機能にまたがっていて、一律に金額換算することが難しい。
そうした“見えない価値”をどう扱うかが、自然資本における大きなチャレンジです。
——そのような目に見えにくい自然の価値を、企業や社会が理解するにはどうすればよいのでしょうか?
竹内:ひとつのアプローチが「生態系サービス」という考え方です。これは自然が私たちにもたらしている恩恵を、経済的な観点で捉え直そうとするものです。
例えば、森林が保水力を持っているため、治水や水質浄化に貢献していますよね。あるいは、海洋資源が創薬の原料になったり、食文化や観光資源として活用されたりと、自然の機能には多様な価値があります。
——私たちの生活に欠かせないものですね。
竹内:そのようなわかりやすい価値のほかに、エンタメ領域における価値も無視できません。たとえばポケモンのキャラクターの多くは、身近な動植物をモチーフにしていますし、ジブリ作品でも森や生き物が重要なモチーフになっています。
そう考えると、生物多様性は私たちの創造性や文化的アイデンティティにもつながっていますよね。これは経済価値とは別の次元ですが、社会の豊かさを支えている重要な要素だと思います。
イノカが発明した「環境移送技術」とその活用
——イノカの技術について聞かせてください。
竹内:私たちは海洋環境をラボ内で再現する「環境移送技術」を開発しています。一言で言うと、「特定の自然環境を別の場所に“移送”して再現する」技術です。イノカでは主にサンゴ礁や干潟といった海洋の自然環境を、人工海水と独自の生態系設計ノウハウを使って、都市の研究施設などに構築することができます。
温度や塩分濃度、照度、水流、底質など、細かな要素を管理しながら、自然に近い生態系の状態を再現することが可能です。

——その技術は、どのような場面で活用できるのでしょうか?
竹内:代表的な例としては、製品や化学物質が海の生態系に与える影響を調べる環境試験があります。例えば、ある日焼け止め成分がサンゴに与える影響を検証する、といった用途ですね。
自然環境の中では季節や気象の影響が大きく、条件を揃えることが難しいのですが、私たちの再現環境なら、一定の条件下で再現性のあるデータを取得できます。これは科学的評価やレギュレーション対応において大きな価値を持つと考えています。
——自然を守るための技術であると同時に、企業の研究開発や評価にも活かされているのですね。
竹内:はい、その通りです。サステナブルなものづくりを目指す企業にとって、自然との関係性を科学的に可視化することはこれからのスタンダードになっていくはずです。私たちは、その基盤技術を提供していきたいと思っています。
——技術のルーツについても伺いたいのですが、こうした専門的な技術はどのように生まれたのですか?
竹内:実は当社にはChief Aquarium Officer(CAO)という特殊な役職があります。そしてそのCAOがもともと趣味として、自宅に凄まじいサンゴ礁の生態系を作り上げていたんです(笑)。そこで得たノウハウがベースになっています。いわば職人的な知見と、エンジニアリングやデータ解析を掛け合わせることで、唯一無二の技術に昇華されてきました。
「サステナビリティ」が収益につながる?新たな産業の可能性
——サンゴ礁の再現や保全に取り組む中で、海洋資源にはどのような可能性があると考えていますか?
竹内:サンゴ礁は、海の表面積のわずか0.2%にしか存在しませんが、そこに海洋生物の25%が暮らしていると言われています。非常に多様で豊かな生態系が広がっているのですが、気候変動や海水温の上昇によって、このままでは90%以上が死滅する可能性があるとも指摘されています。
一方で、この豊かな生態系には、まだ見つかっていない新種の微生物や生物資源が数多く眠っており、医薬品や食品、化粧品などへの応用が期待されています。
——“守るべきもの”であると同時に、うまく活用することで大きな可能性も眠っているのですね。
竹内:そうなんです。海洋は未開拓資源の宝庫でもあります。例えば、抗がん作用を持つ成分を生み出す微生物が発見されるなど、実際に創薬の分野では成果も出ています。こうした海洋資源を適切に理解・活用することで、自然と人間の双方にとって価値あるビジネスが成立する可能性があると考えています。そういったビジネスが成立すれば、サステナビリティが収益につながって行く形もありえます。

——日本にはその分野での優位性もあるのでしょうか?
竹内:はい。日本は生物多様性のホットスポットとされていて、特にサンゴについては世界に約800種あるうち、約425種が日本近海に生息しています。また、排他的経済水域(EEZ)における海洋面積は世界第6位、体積では第4位というポテンシャルがあります。
これは、さまざまな気候帯・海洋環境を一国内でモデルケースとして持てるという意味で、研究開発にも大きな強みになります。
——海というフィールドに関しては、日本はまさに「試す環境」に恵まれているのですね。
竹内:そうなんです。南北に長い日本列島は、亜寒帯から亜熱帯まで幅広い気候をカバーしています。そのため、多様な海洋生態系が存在し、個別のニーズに応じた環境モデルを構築しやすい。さらに、東南アジア諸国とも地理的・文化的に近く、連携して国際的な自然資本ルールの形成にも貢献できるポジションにあります。
——自然科学や外交といった複数の領域で、日本は独自の価値を発揮できそうですね。
竹内:はい。チャレンジングな部分ですが、将来的には取り組んでいきたいと考えています。先ほどもお伝えした通り、地理的に海洋生態系が豊かな日本にはそのポテンシャルがあります。自然資本を「守る対象」から「活かす資本」へと捉え直す中で、日本の自然環境と技術基盤は非常に大きなアドバンテージになります。
私たちの環境移送技術を使い、データが蓄積していけば海の環境保護基準などグローバルでのルールメイキングも可能になるはずです。ルールが明確になることは、さまざまな業種や業界の日本企業にもビジネスチャンスになるはずなので、そこも見据えて事業を推進していきたいと考えています。
企画:阿座上陽平
取材・編集:BRIGHTLOGG,INC.
文:鈴木光平
撮影:小池大介