AIやブロックチェーンなどの新たな技術やそれを使ったビジネスモデルが法規制の壁に阻まれ、その潜在的な力を十分に発揮できないケースは珍しくない。これに対して、日本政府は「規制のサンドボックス」という革新的な制度を通じて、イノベーションの実現を後押ししている。変革の時代の担い手としてスタートアップの存在感も一段と大きくなっている。
経済産業省 競争環境整備室長の池田陽子氏は、内閣官房の新しい資本主義実現本部事務局で「スタートアップ育成5か年計画」の策定に携わり関連著作もあるなど、日本のスタートアップエコシステムの構築に尽力している。今年、官僚として唯一、Forbes JAPANの「Women in Tech」(テック領域で世界を変えるべく活躍する女性)に選出された。
本インタビューでは、池田氏にスタートアップ政策や「規制のサンドボックス制度」について詳しく語っていただいた。池田氏の著書『官民共創のイノベーション 規制のサンドボックスの挑戦とその先』(出版:ベストブック、中原裕彦審議官との共編著)でも触れられているように、イノベーションを促進しつつ、社会の安全や公平性を担保する新しい政策形成のあり方が模索されている。
日本が直面する社会問題の解決に向けて、スタートアップの役割はますます重要になっている。政府の積極的な支援策と、既存の規制にとらわれない柔軟な制度設計が、どのように日本のイノベーション創出を後押ししているのか。池田氏の洞察を通じて、日本の未来を切り拓くスタートアップ政策の最前線に迫る。
池田 陽子
経済産業省 競争環境整備室長
2007年に東京大学卒業後、経済産業省に入省。専門分野は、イノベーション政策、ルール形成、グローバルガバナンス。内閣官房では政府全体のスタートアップ政策を統括。近著に『官民共創のイノベーション 規制のサンドボックスの挑戦とその先』。経済産業研究所コンサルティングフェローとしても活動。これまで携わってきたスタートアップ政策、対GAFAのデジタルプラットフォーム規制、出版等の功績を評価され、2024年、Forbes JAPANの「Women in Tech」に選出。
ポイント
・「スタートアップ育成5か年計画」で、人材・資金・大企業連携を軸に日本のスタートアップ支援が本格化。
・「規制のサンドボックス制度」で、AIやブロックチェーン技術を使った革新的なビジネスの社会実装が進み、イノベーションを加速。
・その際、行政官とスタートアップ経営者が協力するなど官民共創の取り組みが重要。
・スタートアップは、経済成長と社会課題解決の両立を担う「新しい資本主義」の主役。
・スタートアップを生み育てるエコシステムの構築が、日本社会の成長を支える。
INDEX
・きっかけは、サイバーダインとの出会い
・「スタートアップ育成5か年計画」を支える3つの柱
・「新しい資本主義」には、スタートアップの創出・育成が不可欠
・イノベーションを後押しする、「規制のサンドボックス制度」
・時代に合わせてルールも進化、「アジャイル・ガバナンス」が重要に
きっかけは、サイバーダインとの出会い
――どんなきっかけで経産省でスタートアップに関わるようになったのでしょうか。
池田:入省2年目の民間企業研修でスリランカ人の方が社長のバイオベンチャーで働いたことがあります。決定的だったのは、入省5年目、課長補佐になった時、筑波大学発メディカル系スタートアップのサイバーダインで代表を務める山海嘉之氏に出会ったことです。当時、経済産業省の研究開発課で様々な事業者の方にヒアリングをしている中で、たまたまお会いした1社がサイバーダインでした。今でいうディープテックスタートアップですが、大学での研究成果を生かして起業すること自体まだ珍しかったころです。
同社は、高齢で体が不自由な人や交通事故に遭って下半身不随の人でも、それを身に着けて頭の中で歩きたいとイメージすると動けるようになるという世界初のサイボーグ型ロボットを開発していました。山海氏の情熱とその革新的なアイデアに心を掴まれたと同時に、こうしたイノベーティブなプロダクトの社会実装を後押しするために何ができるかと考えるようになりました。
サイバーダインは、製品の社会実装を進めるにあたって世界を見渡し、最も早く市場導入できる国とその制度を見比べ、また、革新的であるあまり製品の安全性を規定するルールがない場合は、国際標準を自らつくって市場を開拓していきました。そこから、ルールとイノベーションの関係に強い関心を持って、国際標準課など関連部署で働いたり、その成果を生かしてイノベーション研究のトップジャーナルであるTechnovation誌に論文を出したりしながら、今のキャリアパスに至っています。
――10年以上スタートアップや政策に関わる中で、スタートアップを取り巻く環境の盛り上がりをどう見ていますか。
池田:スタートアップ政策が史上最も盛り上がったのは、2022年、スタートアップ創出元年からです。霞が関用語でいうところの「一丁目一番地」の政策アジェンダに初めてなり、国を挙げてスタートアップ支援に注力するようになりました。
これまでも様々な施策は行われてきたのですが、スタートアップを生み育てるエコシステムが十分でない中で、継続性や成果の蓄積にどうしても限界があることが指摘されていました。そこで2022年に「スタートアップ育成5か年計画」という、過去最大規模の関連予算1兆円に加えて、税、法律などを総動員し、当時考えられるあらゆるスタートアップ支援策がパッケージ化され、動きが本格化していきました。計画をとりまとめる過程では、宮内庁以外のあらゆる役所とやりとりをしたといっても過言ではありません。
「スタートアップ育成5か年計画」を支える3つの柱
――「スタートアップ育成5か年計画」の内容について教えてください。
池田:「スタートアップ育成5か年計画」には大きく3つの柱があります。
1つ目が、スタートアップ創出に向けた人材・ネットワークの構築。
2つ目が、スタートアップのための資金供給の強化と、IPOやM&Aなど出口戦略の多様化。
3つ目が、大企業との連携やオープンイノベーションの推進です。
その中には新しい施策もあれば、これまでも取り組んできた施策も含まれますが、3つの柱を立てて相互の関係に目を配りながら、それらを質・量共に一気に強化することが、エコシステムを作る上で意義深いと思っています。
実際、目に見える形で成果も出てきています。すでに「スタートアップ育成5か年計画」のあらゆる施策が実行フェーズにあるわけですが、 スタートアップの数は、2021年から2023年の間に1.5倍ほど増えて裾野が広がっています。大学生の方とお話していても就職先の一つとしてスタートアップが定着してきていると感じます。自ら起業を目指す方とお会いする機会も増えていますし、やはりスタートアップ創出元年前後で大きな変化が生まれたように思います。
エコシステムを作ることは一朝一夕でできることではありません。最大限の政策がラインアップされているところ、スタートアップ関係者の皆さまにはニーズに応じてこれらの支援策をぜひ使い倒していただければと思います。
「新しい資本主義」には、スタートアップの創出・育成が不可欠
――なぜ政府はこのタイミングでスタートアップ政策に注力したのでしょうか。
池田:当時、政府は「新しい資本主義」の実現を掲げていました。「新しい資本主義」とは、簡単にいえば、従来の経済的な利益の追求だけでなく、社会的な課題の解決と両立させて、新しい市場を創造していくことが重要という考え方です。経済成長と社会課題の解決、その両方を担えるプレイヤーがまさにスタートアップということです。「新しい資本主義」の象徴的な存在として、こうした担い手を増やすために、エコシステムを作りスタートアップを創出・育成することが不可欠と考えました。
――なるほど。なぜ大企業ではなく、スタートアップに着目したのでしょうか?
池田:もちろん大企業が果たす役割は大きく、オープンイノベーションも推進しているところですが、現在、日本社会が直面している課題はDXやGXなど、いわゆる「X=トランスフォーメーション(変革)」の推進が多いですよね。前例踏襲、予定調和の時代ではないということです。となると、やはり革新性や創造性を持って新しいことに機敏に取り組めるプレイヤーとしてスタートアップがより重要になっていきます。こうしたイノベーターの新規参入や成長は、公正でダイナミックな競争環境のためにも不可欠です。
政府がその時々で担うアジェンダにはどうしてもトレンドがあることは否めませんが、スタートアップ政策に関しては、2022年から始まってさらに盛り上がり、今や定着しつつあるように感じています。首都圏から地方へと波及する動きも確実にあります。変革の時代の真っただ中で、今の日本社会に本当に必要だからこそ政策として根付いているのだと感じます。
「スタートアップ育成5か年計画」が実行される中で、足元、スタートアップの数が増えていることは先ほど述べたとおりです。他方で、そこから生み育てられたスタートアップが新たなビジネスアイデアを実現していこうにも、規制の壁に阻まれてしまうケースがあります。そこで登場するのが、「規制のサンドボックス制度」です。
イノベーションを後押しする、「規制のサンドボックス制度」
――「規制のサンドボックス制度」の内容についても伺えますか。
池田:スタートアップが、AIやブロックチェーンなどの新しい技術を使って革新的なビジネスを作り、成長を遂げていこうという際、古い規制に抵触してしまうケースが出てきます。それを解決するために「規制のサンドボックス制度」が生まれました。『官民共創のイノベーション 規制のサンドボックスの挑戦とその先』の共著者である中原裕彦審議官が主導して2018年に創設された制度です。
サンドボックスというのは、砂場という意味で、子供が自由に砂場で遊ぶように試すことのできる、まずやってみようという実験場なのです。具体的には、新しい技術やビジネスモデルの社会実装に向けて、期間や参加者を限定した形で、今すでにある規制の適用を受けずに実証することを可能とする制度になります。そこでデータを収集して、アイデアを事業化してもいいですし、元々ある規制が妨げになっているのであれば、規制改革や法改正につなげてもいい。そういったことを許容する場を政府が提供し、イノベーションを社会実装する道を開いているのです。
従来、日本では、法律は国が作ってあとはそれに従うだけというイメージが強かったと思うのですが、本来は自分たちで変えられるし、なければ作ることができる。ルールフォロワーではなく、自らルールメーカーになり、官民共創でイノベーションを実現していきましょうということです。
遡ると、それは私自身がサイバーダインと初めて出会った時に感銘を受けたことでもあります。皆がルールメーカーの思考になることで、イノベーションは加速し、社会はもう1段次のステージにいけるのではないかと思います。
――スタートアップが「規制のサンドボックス制度」に申請する際に、意識すべきポイントはありますか?
池田:お持ちの熱意やアイデアを役所の申請書フォーマットの形に落としていただくことだと思います。サンドボックス制度に限られる話ではないですが、なぜ制度利用が必要なのか、その必要性や重要性をできる限りエビデンスと共に、定量的かつロジカルに説明していただくことは必要になります。官民それぞれの思考プロセスがある中で、相互理解やコミュニケーションがあらためて大切になると思います。
――「スタートアップ育成5か年計画」や「規制のサンドボックス制度」の活用を検討している人は、どうやって情報を収集すればいいのでしょうか?
池田:規制のサンドボックス制度については、内閣官房に一元窓口がありますので、まずはそちらにお気軽にご相談いただきたいです。書式の書き方や担当省庁がどこになるかなど手厚くサポートしてくれます。また、スタートアップ政策については、「経済産業省 スタートアップ」で検索すると、経済産業省のスタートアップ支援策のページが上位に表示されます。「今どのフェーズにいるのか」「予算が必要なのか」「ルールの部分で困っているのか」など、その人の状況やニーズに沿って必要な情報に誘導してくれる作りになっているので、ぜひご覧になっていただきたいです。
もっと詳しく知りたい方は、「官民共創のイノベーション 規制のサンドボックスの挑戦とその先」という本を出版しましたので、ぜひ参考にしていただけたらと思います。先ほど官民の相互理解やコミュニケーションの重要性を述べましたが、「あの時、担当行政官はこんなことを考え、こうやってこれまでにない法律上の論点を乗り越えた」 「新しいチャレンジだったので時に眠れない夜を過ごした」など、日頃明らかにされることのないリアルなエピソードも含め、事例ベースで「規制のサンドボックス制度」について解説しています。ルールを変えた者たちの苦労や軌跡が、届くべき人に届き、新たな挑戦を後押しすることにつながればうれしいです。
時代に合わせてルールも進化、「アジャイル・ガバナンス」が重要に
――新しい法律を作る、もしくは規制を変えることがポジティブに働く場合もあれば、ネガティブに働く場合もあると思います。そのリスクについてはどうお考えでしょうか?
池田:一般的に、法律などのルールは、その時々の社会課題に対応するため、エビデンスにもとづいてしっかり必要性や重要性を説明して、プロセスを踏んで作られていくものです。しかし、おっしゃるとおり、今は技術進化のスピードがすさまじく速く複雑化もしています。そのため、ある時点で最善を尽くしたとしても、法改正に年単位で時間を要するといったこともある中で、内容があっという間に陳腐化してしまったり、当初想定されていなかった事態への対処が必要になるといったことも大いにあり得るでしょう。
ですので、法制度も、本来は時代の要請に合わせて作ったり変えたりしていく必要があります。その1つが「規制のサンドボックス制度」ですし、「アジャイル・ガバナンス」という考え方もありまして、法制度をアジャイルに見直してアップデートしていくという視点は一層重要になっていると思います。
こういったルールとイノベーションのあり方は、決して日本だけではなく各国でも追求されている課題であり、理論的にも実践的にもさまざまな試みが行われています。逆に言うと、なにか一つの万能解があるわけではないので、政策現場において試行錯誤しながらフロンティアを開拓していくやりがいともいえるのではないでしょうか。
変革の時代にあって、世の中には新しいものを生み出そうとする挑戦者があらゆるところにたくさんいらっしゃいます。本を出版したときの反響から、それはひしひしと感じ、得がたい出会いにも恵まれました。これからもそんなイノベーターの方々とのつながりを大切に、行政の立場から日本の未来がより良いものになるよう尽力したいと考えています。
企画:阿座上陽平
取材・編集:BRIGHTLOGG,INC.
文:VALUE WORKS
撮影:小池大介