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現代社会の技術について、哲学者と語る——私たちは技術とどう向き合うのか

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生成AIに代表される最先端技術の台頭で、私たちの社会は変曲点を迎えている。こうした最先端の技術は、超高齢社会を迎える日本にとっての救世主になりうるのか。それとも、私たちから職を奪い去る脅威となるのだろうか。あまりにも急速に発達する技術に逆照射されて、人間のあり方が問われているようにも思う。

社会や人間にとって、技術とは何なのか。私たちビジネスパーソンは技術に対してどのように向き合うべきなのか。その答えを哲学に求めようと、東京大学を訪れた。東洋文化研究所所長である中島隆博先生にお時間をいただき、人間と技術についてお話を伺った。

中島先生によれば、「企業に求められているのは、哲学者との『対話』である」とのこと。そこで今回はお言葉に甘えて、xTECHを運営する三菱地所の堺美夫が、中島先生と「対話」させていただいた。悩めるビジネスパーソンと哲学者との対話を通して、人間と技術のあり方について考察を深めていく。

中島 隆博
東京大学 東洋文化研究所  東アジア研究部門 教授
東京大学法学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程中途退学。東京大学大学院総合文化研究科准教授等を経て、2012年から東洋文化研究所准教授、2014年から同教授。2023年より現職。社会人向けプログラムであるEMPに立ち上げから参加し、堺美夫はその25期生である。
研究分野は、中国哲学、世界哲学。著書に、『中国哲学史――諸子百家から朱子学、現代の新儒家まで』(中公新書、2022年)、『危機の時代の哲学――想像力のディスクール』(東京大学出版会、2021年)、『思想としての言語』(岩波現代全書、2017年)、共著に、マルクス・ガブリエル&中島隆博『全体主義の克服』(集英社新書、2020年)、編著に、中島隆博編『人の資本主義』(東京大学出版会、2021年)、共編著に、伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編『世界哲学史』全8巻+別巻(ちくま新書、2020年)、訳書に、アンヌ・チャン『中国思想史』(志野好伸、廣瀬玲子との共訳、知泉書館、2010年)など多数。

インタビュワー:堺美夫 三菱地所株式会社 XTECH運営部 ユニットリーダー

INDEX

技術は単独で存在するものではない——「技術=道具」の誤解からの脱却
人間の生に豊かさをもたらす技術とは
AIとともに歩む未来——価格至上主義に決別する
資本主義が、本当の意味で機能する社会を目指して

技術は単独で存在するものではない——「技術=道具」の誤解からの脱却

:本日はお時間をいただきありがとうございます。AIをはじめとした技術がどんどん出てきている社会において、何を考えてビジネスを進めていくべきなのか。人間や社会のあり方と技術について、哲学から何かヒントを得られればと考えております。と言いつつ、私自身も哲学についてすごく詳しいわけではないので、まずは哲学とは何か、現代社会に何をもたらしてくれる学問なのかから改めてお聞きしたいです。

中島:哲学とは何か。その問いに一言で答えるなら、「新しい概念を創造する」学問だと言えるでしょう。

かつてphilosophiaが誕生したギリシアは、交易の中で発展した地でした。エジプトのように、神からの神託を授かった神官によって知恵がもたらされるような、上下を軸とした垂直的な構造に比べると、交易によって横から新しい概念がもたらされる、水平的に広がっていく場でした。

そのようなギリシアで生まれたphilosophiaは、他のさまざまな分野の学問が発明した諸概念をも吟味し、その限界を見定め、可能性を拡張するなどして、それらとの関わりの中で発展を遂げてきました。そこには技術technēも含まれます。そして、近代的なphilosophyが日本に入ってくると、西周によって最初は「希哲学」と訳されます。希には「こい願う」という意味があるため、「明らかな知を希む(望む)学問」と理解されたのですね。その後、「希」が取れて、「哲学」として定着し、東アジアにも広がっていきました。

:哲学は他の学問との関わりの中で発達してきた概念の学問だということなのですね。

中島:そうですね。より正確には“新しい概念を創造する学問”だと言えます。ここ数十年間、イノベーションがうまく行われてきたとは言い難い現実がありますが、それは、概念の発明に十分手を入れてこなかったからだと思うのです。本来、新しい技術には新しい概念がセットで創られることが求められていて、その関わりの中で起きるのがイノベーションだと思います。だからこそ技術は、概念創造の学問である哲学と手を携えていくべきだというのが私の考えです。

:概念と技術が手を携えるとは、具体的にはどういったことを指すのでしょうか?

中島:かつて中国には、包丁(ほうてい)という料理の名人がいました。神技のような技術を持っていて、どのような牛を解体しても刃こぼれひとつしないのです。その技術とは何か、なぜそのような技術を持っているのかと尋ねると、「自分が“道”を得ているからだ」と答えたと言うんですね。

それでは、道とは何か。道は抽象的な原理だと思われがちですが、実際には技術と深く結びついたあり方を指しています。つまり、技術とは、決して二次的なものではなく、我々のあり方を根本から規定してしまうものなのです。現代では技術は二次的な道具だと考える節もありますが、それは違います。道という、私たちのあり方を規定するものと一体となったものが、技術だったわけですね。

別の例を出しましょう。たとえば中国の絵画や書からは「勢」を感じますよね。これは、筆の運びや要素の配置といった技術に支えられているものです。その一方で、もし「勢」という概念がなければ、こうした技術が何を表現しているのかはわからないのです。つまり、技術と概念は一体となって、ひとつの新たな世界を示すものです。これは今の先端的な技術にも言えることで、概念と合わさることで新しい地平を拓くことができると言えるでしょう。

:近年の日本では、技術を単に活用しよう、お金を稼ごうなどという、既存の評価軸に基づいてしまっていたように感じます。

中島:そうですね。技術とは概念と一緒にあることで、人間を再定義していく力まで有するものです。道や勢といった概念の話をしましたが、そうした概念は単なる評価軸ではなく、人間の生のあり方に理想や希望を与えるものだと思うのです。概念が独特な力を生み出し、それが人間に効果を与え、人間それ自身を変容させていく。技術と概念は両輪になりうるものですし、そうならなければならないと思います。

たとえばAppleのiPhoneは、世界の見方を大きく変えたものですよね。今では、iPhoneが登場する以前の世界を想像することすら難しくなっているほどです。それは、スティーブ・ジョブズが概念を打ち出し、私たち人間が何を望むのかを指し示したからだと思うのです。足元の技術を単に延長させたものではなく、希望を創造し、そこに向かって花開かせていくことで、我々の生のあり方を根本から変えてきたわけですね。

人間の生に豊かさをもたらす技術とは

:先ほどの中島先生のお話で、技術や概念が人間を再定義するとありました。人間の再定義とは何を指していて、何を指していないのでしょうか?

中島再定義といったときに間違ってはならないのは、単に言葉を変えればいいわけではないということです。人間という概念がこれまでどういった文脈で培われてきたのかをよく考える必要があります。その上で、人間という概念の振る舞いの地平自体を変えていかなければ、再定義は起こりません。人間を取り巻く言葉を単に変えるのではなく、文脈も含めて考え直していくことが人間の再定義です。

その点、私が常々申し上げているのは、人間というのはHuman Beingではなく、Human Co-Becomingだということです。かつては神に対して存在(Being)が語られていましたが、近代以降、人間が神の代わりに中心的な存在として振る舞うようになりました。ところが、存在という概念が持つ神学的な文脈がそのまま維持されているために、20世紀になっても存在神学が語られていて、さまざまな問題が惹起されています。とりわけ、人間以外の存在者に対する傲岸な態度は非常にまずい問題です。それはしばしば人間の中にも折り返され、見過ごすことのできない分断を生んでいます。これを変えていくためには人間をHuman Co-Becoming(共に人間的になっていく)と捉え直して、存在という文脈を脱して、生成変化(Becoming)において再定義しなければならないと思っているんです。

考えてみれば、人間は変化していくものであって、しかも一人では生きられません。人間は未完成であって、人間的なものに向かって変化していく途上にあります。つまり、神に代わって世界の中心になる存在ではありえない、人間の弱いあり方が見えてくるはずです。

人間は、英雄的に屹立する個人ではありません。人間は社会性に開かれていて、他の人間と共にある複数性を帯びているのです。このように人間を見ると、ひとりの人間のあり方を「よく」することや、その人が「よく」生きることは、社会を「よい」方向に向かわせることと不可分だということに気づかされるのです。

:なるほど。それでは、人間や社会をよくするためには、まずは何から変えていけばいいのでしょうか?

中島:それが、技術なんですよ。技術は、単なる道具ではなく、私たちの生のあり方を根源的に条件づけているものでしたね。その技術を変えていくことこそが重要なんです。

たとえば近代西洋は公共空間と切り離しては考えられないと言われますが、その公共空間を具体的に支えていたのは新聞、カフェなどの当時の最新技術です。技術を抜きにして人間や社会のあり方を考えることができないくらい、私たちの考えや生活は技術に依存しています。

:現代においてはSociety 5.0といった考え方も提示されています。このような社会の転換は、技術の発展によって起こりうるということですね。

中島:そのように思いますね。それくらい技術の力は大きいものです。だからこそ、技術とは何かという問いにもきちんと向き合うべきだと考えています。あるいは、技術とは何かという問い自体を問い直すべきなのかもしれません

たとえばマルティン・ハイデガーは「技術とは何か」という問いを立てた上で、ゲシュテルという概念を用いて、「技術とは人々の欲望を刺激してある方向に駆り立てていくものだ」と答えました。ところが、その行き着いた先はナチズムだったわけです。駆り立てられた先に特定の民族を絶滅に追い込むことになるのは、容認できないものです。我々は、技術について、問い方や答え方をどうすればよいのか、深く考えなければならないんです。

そこでヒントになるのが、香港の哲学者ユク・ホイさんの主張です。ホイさんは、『中国における技術への問い』(ゲンロン、二〇二三年)という本の中で、技術の背景には、それを支えるそれぞれの宇宙論があると主張しました。たとえば中国では、道という概念があり、それを体現する二次的なものが「器(き)」すなわち技術であると言うのです。これは、道との関連から技術を問うている点で、ハイデガーの答えとは異なります。私はその解説の中で、ホイさんの議論とは違って、道そのものが技術であると言うべきではないかという提案をしましたが、それでもユク・ホイさんからは、ハイデガー的な問いと答えとは違う、技術に関する議論が可能だという重要な示唆をいただいたと思います。言い直しますと、ホイさんは、どの文化にも技術を支える宇宙論があり、複数の文化において考えられてきた技術についての問いを、西洋中心主義を超えて議論すべきだと主張しているのです。ただ、その先を考える必要もあると思っています。つまり、複数の文化がそれぞれ屹立していて、その比較を試みることも重要ですが、実際にはそれぞれの文化が相互に交通しあっているわけですから、文化間の混淆のダイナミズムを尊重する姿勢もまた求められていると思います。

:技術と概念は両輪だという先生のお話をふまえると、ハイデガーのような問い方であれば、技術をゲシュテルという概念に還元するもので、技術の別の捉え方、さらにはそれを支えている別の宇宙論が見えなくなるわけですね。

中島:技術は私たちの生のあり方を条件づけてしまうものなのですから、どういう社会を望むのかという、希望の問いと結びついたものでなければなりません。技術とは何かと単に問うのではなく、人間の生のあり方を豊かにしていく技術とは何かと問い直すことで、違った景色が描けるのではないかと思います。

AIとともに歩む未来——価格至上主義に決別する

:おっしゃる通り、私たち人間の営みも社会のあり方も、技術の力で大きく変わっていることを強く感じています。

中島:人間の営みはこの1世紀で本当に大きく変わりました。今の日本社会は、100年前からは想像もつかない姿をしています。もちろん今後も人間の営みの形は大きく変わっていくことと思います。

ここで問うべきなのは、人間や社会がどこに向かって変わっていくべきなのかということです。今の人間の営みの形を維持していくと地球が壊れてしまうことは明らかです。惑星としての地球の限界が見えてしまっている中で、私たちはその営みの形を変えるしかありません。それではどのように変えていくべきなのか。これが今問われていると思います。

:難しい問題ですよね。私もクライメートテックに携わろうと思うのですが、どうしても人間は弱いので、目先の金儲けに走ってしまう人も多い。私たちはどこに向かうべきなのか、そして個人や企業の利益を超えたところにある未来に、私たちはどうすれば到達できるのか。先生のお考えをぜひお聞かせいただきたく思います。

中島:私もその問題についてはよく考えるのですが、今こそ価値とは何かといった問題に正面から取り組むべきのではないかと思います。価値というものをどのように考えているのかを、正統派の経済学者に聞いてみたことがあるんです。すると、価値の問題は考えないと言うのですね。つまり、価値をマーケットにおいて価格に置き換えているのだそうです。

こうした議論は問題があると思っています。なぜなら価格はマーケットの中でしか議論が成立しないのですが、私たちの生のあり方はマーケットの中だけで成立しているわけではなく、マーケット外のこともたくさんあるからです。たとえば、社会関係資本などはマーケットの中だけで成立しているわけではないので、価格はつきません。しかし、社会関係資本を射程に捉えずに、価値の問題は議論できるはずもありません。また、マーケットがないところで行われる私たちの営みをマーケットに組み込み価格に転換するのは原理的に無理です。そうすると、価値は価値のまま取り扱うべきだと思います。

社会関係資本も含めて価値を考えた時、もっとよい企業活動につながるのかもしれません。社会関係資本を増やす企業活動によって、貧困や孤独の問題の解決に資する。そのように発想を転換することで、企業が投資すべき先はもっとたくさん立ち現れてくるはずです。たとえば人間同士の対話を通して、今まで見たことのない風景が見られたり、その人の言葉によって自分のあり方がガラッと変わったりすることがありますよね。そこに企業も投資していけばいいんです。そうすれば、大変大きな価値を生む企業活動が実現するのではないでしょうか。

:私の感覚ですが、売上や利益のような数字ばかりを追いかけている企業はいずれ潰れてしまうんだろうなと思うんです。そうではなくて、社会関係資本や気候問題にきちんと取り組めている企業が生き残っていくはずです。世の中はそのような形で新陳代謝が起こっていくのでしょうね。

その点、上場企業は非財務指標の発信も徐々に義務化されてきました。こうした指標1つとっても、外から来た指標を形だけ使うのではなく、自分たちが何を望むのかを考え抜いて、新しい概念を自分たち自身の手で作り出していくことが重要なんだろうなと感じています。

中島:まさにその通りだと思います。最近、企業でも企業理念を見直す動きがあります。その際にまず必要なのは、その企業がこれまでどのような経験を積んできたのか、経営者の方々がどのような場面で何を発信してきたのかを具体化することです。やはり、具体的な状況で発せられた具体的な言葉を蔑ろにしてはいけません。そうした言葉が結晶化した上に企業理念が描き出されると、それは意味のある理念になってきます

先ほども触れましたが、マーケットで成立する価格についても考え直すべき時だと思います。需要と供給の交差するところ(神の見えざる手)で価格が決まると言われますが、本当にそうなのでしょうか。需要曲線・供給曲線は、「経済人」同士が関与する際のある種の理想的な状態を示しているかもしれませんが、それはお互いを知らないという匿名の取引を前提としているわけですよね。ところが、一部の経済学者が主張するように、現実には顔の見える関係での取引が依然として多いと言われています。そうすると、その人次第のプライシング(価格設定)も十分ありえます。顔の見えないプレーヤーがマーケットで動いているというフィクションに縛られ続ける必要はないのです。こう考えていくと、マーケット外の価値との連動もありえるわけで、このような社会的想像を持ってもかまわないわけです。

:昔は、商売も家族ぐるみの付き合いに規定されていて、「あの家には子どもがたくさんいるからお米も多めにあげよう」といった世界もあったわけです。あるいは会社での人材の評価も、KPIを定めて実際にいくら売り上げたといったものだけでなく、たとえば1年前と比べて言葉遣いや考え方が変わったという指標もあったっていいわけです。むしろそちらの方が、いろいろな経験を積んできたことの証左になっているのかもしれません。

そのような考え方は、技術との相性も良さそうだと感じています。現実に、こうした考えを実現させられるような技術は生まれつつあるわけです。あるべき社会の実現は、イノベーションによって近づいているのかもしれませんね。

中島:技術の話で言いますと、先ほど私が申し上げたマーケット外での価値との連動についても、うまくやらないと贔屓などの不平等につながりかねません。より重要なのは、価値を通じて、単なる平等equalityではなく、公正equityを実現させることです。そして、それを実現しうる技術が求められていると思うんですね。

まだまだ技術がやるべきことはたくさんあります。たとえば仏教を考えてみると、昔の中国の僧侶は、悟りを開くために、自分に合った師を求めて旅から旅へと放浪していました。師となる人物を求めて、何人もの人と出会って、やっと一人の師と巡り合うと、自分の生が一新されるのです。そうした巡り合いを、今日では、技術の力でサポートできるのではないかと思うんです。

:悟りを開くための方策はAIが示してくれるかもしれませんが、悟りを開くこと自体は人間にしかできない行いですよね。悟りに限らず、技術の力を借りながら経験を積み重ねていくことの重要性が高まっているようにも感じました。

中島これからの社会においては人間の経験が根本的に深まっていくことが重要になると思います。そうした経験を背景にして、私たちは自分にふさわしい言葉を獲得していく。それぞれの人がそうした経験の深まりと自分にふさわしい言葉を獲得できるのがよい未来だと思うんです。

これまで多くの人は、人に押し付けられた言葉、もしくは流行の言葉を使って、何とか社会に合わせようとしていたと思います。しかし、それでは何か大事なことが欠けているように思います。大切なことは、自分の言葉を見つけて、それによって語ることです。そのためには、自分の経験を深めて、ふさわしい言葉に辿り着かなければならない。この順序はこれからも変わらないと思いますが、そのプロセスの助けになるのが技術だと思っています。

人間はAIと異なり、知らないということを感じ取ることができます。具体的には、ある本を読んで、そこに何か大切なことが書いてあることはわかるのに、今の自分の経験の量や質ではそこに届かないがために、わからないという感覚ですね。それを感じた時に、自分の頭だけでなく、他人の頭も使って必死に考えて自分の経験を深める努力をするのです。

そうすると、AIが得意とするものはAIに任せてしまえばいいと思います。そこで、人間にしかできないことが逆にクリアになってくるでしょう。AIは計算はできますし、単語を上手に並べることはできますが、意味を理解することはありません。しかし人間は、その経験を通じて意味を生きるのです。人間は、そのような人間にしかできないことに集中して力を注いだ方がよい。企業の活動も同じで、AIができることはAIにアウトソースしてしまって、人間にしかできないことに投資していくことが大事になってくるのだと思います。

資本主義が、本当の意味で機能する社会を目指して

:AIをはじめとした技術の進歩によって、資本主義のあり方自体も変容するのではないかとお話を聞いていて感じました。これからのビジネスパーソンは、どのように資本主義と向き合っていけばよいのか。お話を伺えればと思います。

中島:資本主義にはいろいろな定義があるわけですが、重要な点は富(wealth)と資本(capital)の区別だと考えています。富は蓄積されるものですが、資本は投資しないといけません。新しい何かに投資を行うことで花が開くように世界が広がり、その果実をいただいた上で、さらに新しい何かに投資していく。このような運動が資本主義だと考えています。これ自体は決して悪いものではありません。

問題は、資本主義という運動が一部の人々によって独占されたり、それによって格差がどんどん拡大したりすることにあると思うのです。言い換えると、一部の富裕層が富を溜め込み、投資を行わなくなる状態が出現して、資本としての投資という本来の資本主義の機能が失われていくことが問題です。ですので、富裕層が溜め込んだ富を貧しい人々の生活を豊かにする投資に回して、資本に変えることで、資本主義の本来の機能を取り戻せばいいのだと思います。それはマーケットの内だけではなく、その外においても同様に、資本をきちんと機能させることが肝心です。

最終的には、資本というのは信用です。将来何が起きるかわからない中で、誰かを信用して投資をする。信用は資本主義のベースにある考え方であって、信用がなければ資本主義はうまく機能しません。不信の下に富を貯蔵するだけでは、投資が適切に行われず、社会に役立つはずの技術もまた死蔵されてしまうわけです。

:皮肉なことに、社会の課題を解決したいと思って始めたはずのサービスが、結果として独占のきっかけになってしまうことはよくあります。富を次の投資に向けていくために、資本主義を有効に機能させて適正に再分配することが大事なのですね。

中島:おっしゃる通りです。考えてみると、税の徴収や社会保障の給付など国家が行う再分配も一種の投資です。だからこそ、きちんとした価値を生む投資となるような適切な再分配を行う必要があります。

よくある勘違いが、国家から独立したところにマーケットがあるというものです。そうではなくて、マーケットは国家による保障の下で成立しているのです。ですので、税を通した再分配を喜んでやってくれないと、社会が回らなくなるので、マーケットの前提が崩れるのです。多くの会社が内部留保をせっせと溜め込み、投資をしないばかりか、従業員に分配をしようともしないということは考え直した方がよいと思います。きちんと、資本主義が機能するように投資をすべきなんですよ。

その投資は、マーケットの外の価値にもつながるでしょう。人間の能力だけでなく、能力を超えたものも花開くようになる。先ほど禅の悟りで述べたように、新しい経験を通じて新しい概念を手に入れるのは、能力ではなく出会いの問題です。「できる」ということの延長線上ではなく、「望む」とか「欲する」という、可能性とは別の次元で考えることが重要なんです。

:概念というものは、どのように作っていけばよいのでしょうか?

中島:それは対話から生まれるものだと思います。哲学者の出番だと思います。

ひとつの妄想かもしれませんが、たとえば、哲学者と対話するプログラムを企業に組み込むというのは面白いと思います。そうした対話を積み重ねて、新しい問いや切り口を手に入れられれば、それはすごくよいことだと思います。焦って答えを見つけることではなく、新しい問いこそが概念を生み出す鍵です。答えであればChatGPTに聞けばいいんです。もっともらしい答えを瞬時に提案してくれますが、それはすでによく知られた問いと答えを前提としたものにすぎません。

:そうした対話を通して、技術のカウンターパートになる新しい概念というのは見つかるものなのでしょうか?

中島:見つかると思いますよ。なぜなら、みなさんはすでにいろいろな経験をお持ちだからです。あれがよかった、あれはまずかったという経験をたくさんお持ちでしょう。そうした経験を結晶化して言葉にすることが大切なんです。哲学者は、経験を結晶化する上での触媒となりうるものです。あくまでも悟るのはご本人で、私たち哲学者は禅でいうところのメンター(師)のようなあり方なんです。

そうした対話を通じて、新しい概念を手に入れることが大事です。すなわち、その人が生きてきた経験を結晶化して言葉にすることがゴールです。もちろんその先を追い求めたい方はぜひ追い求めていかれるとよいのですが、まずは誰か他の人(たとえば哲学者)との対話を通して、自分の経験を結晶化していただきたい。今の時代においては、それこそが、個人においても企業においても必要なことだと思いますね。


企画:阿座上洋平
取材・編集:BRIGHTLOGG,INC.
文:宮崎ゆう
撮影:阿部拓朗