テクノロジーを使った新しいビジネス・モデルでイノベーションを起こす。このxTECHウェブサイトをご覧のみなさんはまさにイノベーションを起こしている方が多いと思います。この記事ではこちらの本にならってイノベーションを「経済的価値をもたらす新しいモノゴト」と定義させてください。そうすると、「政策」という堅苦しい分野にもイノベーションはありえます。私が専門としている環境経済学はネットゼロ(脱炭素)を始めとした環境の分野で「政策イノベーション」を起こそうとしてきた分野です。今回は環境経済学の紹介をさせてください。
INDEX
・環境政策の「カード」を開発してきた
・ピグーの「環境問題プライシング」
・カーボンプライシングは「ローカーボン製品」を後押しする
・もう一つのカーボンプライシング「排出量取引」
・環境政策カードの比較とさらに新しいカードの開発へ
・ネットゼロ・イノベーションの総力戦へ
環境政策の「カード」を開発してきた
「政策」と聞くと何を連想するでしょう。政府による「規制」や「規制緩和」でしょうか。あるいは政府予算での新事業や補助金でしょうか。環境問題でも古くから環境規制や環境保全事業がありましたが、「規制や予算事業以外にも環境問題に取り組む手段があるはずだ」という考えから環境経済学は出発したと言えます。
20世紀初頭のイギリスの経済学者にアーサー・C・ピグーという人がいました。ピグーは当時のロンドン周辺の工場から出る煙が引き起こす大気汚染や空の暗さを解決する策を考案しました。それは、環境を汚染する行動がコストとなるように国家が「汚染に値段を付ける」というアイデアでした。汚染の排出源から罰金のようなものを徴収することで、コストを嫌ってその行動が減るだろうと考えたのです。こうして、環境問題を起こす行動に「マイナスの価値」を社会として作り出せばよいという新しい政策手段が生まれました。
こんな風に政策にも色々なやり方があっていい。そして、政策手段の「カード」をどんどん発明していこう!そんな風にして環境経済学は出発しました。そして、このピグーのアイデアを気候変動問題に応用したのがカーボンプライシングです。気候変動の原因となるCO2を出す行動に対して、政府がマイナスのプライシングをしようというのです。このように、「経済的価値をもたらす新しい制度・政策」を生み出せるはずだ、つまり「環境政策イノベーション」を起こそうとしてきたのが環境経済学になります。
ピグーの「環境問題プライシング」
カーボンプライシングは、CO2を出す行動に対して、政府がマイナスのプライシングをしようというアイデアです。しかし、「CO2を出す行動」に直接価格をつけて、排出された直後に支払いを求めるのは現実的ではありません。そこで、多くの国ではいずれ燃やされてCO2となる化石燃料が購入されるタイミングで支払いを求めます。
この時、政府が価格を指定する価格統制ではなく、消費税のようにいったん政府が徴収するのがポイントです。なぜならば、石油やガソリンの価格を高く設定すると、買う側にはCO2排出を減らすインセンティブが生まれますが、売る側にこれまで以上の利益が出るようになり、さらに売る(=CO2を排出させる)インセンティブが生まれてしまうからです。
そこで、いったん政府がこのカーボンプライシング分を徴収し、それを国民や企業に還付するというのが基本の考え方です。あたかも税金のようなフローとなるので、元のアイデアを出したピグーの名前をとってこの政策カードは「ピグー税」とも呼ばれます。しかし、そもそもの目的は排出者にとっての価格を変えることであり、政府が税収を集めることでは無いので、「環境問題プライシング」と呼んだ方がいいかもしれません。
このプライシングによる環境政策はCO2以外にも応用可能です。大気・水汚染へのプライシングも検討されてきましたし、オゾン層を破壊するフロンガスに対するものも海外にはあります。おそらく読者のみなさんに最も馴染みがあるのは、家庭ごみの排出量に応じたプライシングです。やり方は色々とありえますが、日本の多くの自治体では自治体指定のごみ袋を用意して有料化することで「家庭ごみプライシング」を取り入れています。これにより、1袋出す家庭よりも2袋出す家庭の方が自治体に多くの費用を払う形となります。実際ごみ袋有料化政策で家庭の行動変容が起きて、ごみ処分量が減ったというエビデンスも多数報告されています。
ピグーが元となるアイデアを発表したのは1920年代でしたが、このアイデアは長い間注目されませんでした。世界大戦の影響もあったのかもしれません。ようやく1960年代に一部の経済学者がこれを環境問題に応用することを考え始めました。この「環境問題プライシング」研究を一つのきっかけとして、1970年代に学会や学術誌が誕生し、学問分野としての「環境経済学」が誕生しました。
カーボンプライシングという環境政策イノベーションはまず北欧で社会実装されました。1990年にフィンランドで、1991年にはスウェーデンでピグー税的なカーボンプライシングが導入されました。決して多くの国でとはいえませんが、その後もカナダをはじめ様々な国で導入が進んでいます。
カーボンプライシングは「ローカーボン製品」を後押しする
カーボンプライシングが導入されると、CO2を出して製造された製品の価格が上がることが予想されます。原料の製造や発電に化石燃料が使われていて、カーボンプライシングによる原価上昇(の一部)が製品に転嫁される場合にそうなります。ごみ袋有料化がごみを減らすように、カーボンプライシングの導入がCO2を出して作られる製品の出荷を減らし、結果としてCO2排出を減少させるメカニズムが予想できます。実際、スウェーデンやカナダで高い金額のカーボンプライシングを導入したことで、未導入の場合と比較してCO2排出量が減ったというエビデンスが出てきています。
加えて、カーボンプライシング導入はごみ袋有料化と違って環境への影響を減らす以上の効果が期待されています。それは、製造プロセスでのCO2排出量が低い新製品の普及を促す効果です。これはどういうことなのでしょう。
近年、製品製造時のCO2排出を減らす試みが始まっています。使用する電気をすべて再生可能エネルギーに置き換えることは一番分かりやすい例です。あるいはゼロカーボンでなくとも、従来品よりもローカーボンな製品が登場しています。衣服、靴、ビール、ワインから航空機用燃料や鉄鋼などでも「ローカーボン製品」がマーケットに出てきています。
残念ながら、これらの新製品は「相対的に高い」です。CO2を出さずに再エネを使用し、従来品とは異なる原料で同等のクオリティの製品を製造しようとしているため、コストが高くなって当然です。ただし、カーボンプライシングの導入時には、これらのローカーボン製品は値上がりしないか、値上がりしたとしても従来品ほどではないと予想できます。なぜなら、従来品よりCO2を出さずに作っているわけで、カーボンプライシングの影響を比較的受けないからです。
こうなると、従来品とイノベーティブなローカーボン製品との価格差が縮まることになります。つまり、カーボンプライシングではClimateTech(クライメートテック)を活用した「新しい製品」の普及を後押しする効果も期待されるのです。
もう一つのカーボンプライシング「排出量取引」
すでに述べた通り、ピグー税的なカーボンプライシングがCO2排出量を減らす効果があるというエビデンスが複数出ていますが、その効果はプライシングの価格(税率)にもよります。その価格が低ければ大きな効果は期待できません。また、結果的にどのくらいCO2を減らせるかは不透明な政策です。
そこで、このプライシングのアプローチと規制的アプローチを組み合わせるアイデアを1980年代に経済学者が編み出しました。コラムVol.1でも紹介した「排出量取引」という制度です。これが経済学者による次の環境政策イノベーションでした。マーケット全体でのCO2排出量の規制値を決めて、その排出枠を企業に割り振り、その取引を認めるのです。この時、排出枠に価格がつくことになり、再び「CO2を出す行動」にマイナスの価値がつくことになります。こうして新たな政策カードの「排出量取引」制度が登場しました。
環境政策カードの比較とさらに新しいカードの開発へ
今から40年前にはすでにピグー税と排出量取引の二つのアイデアが登場していました。そして、世界のいくつかの国ではこれらが導入されました。環境経済学の研究は、社会実装された政策に本当に効果があったのか、副作用などは無かったのかをデータから検証することにも広がりました。データから政策効果のエビデンスを得る作業です。
また、そもそも環境政策を導入すべきか?導入するならどのカードか?という「政策の選択」に必要な判断材料を用意することも始まりました。「カードがたくさんあるなら全部使えばよいのでは?」と思うかもしれません。確かに、それが現実的ならばその手もあるでしょう。しかし、政府の財源には限りがありますし(国民の納税が原資です)、制度設計をする政策立案者のマンパワーにも限りがあります。カードを切れるだけ切ればいいかというとそうでは無いことが多いでしょう。
例えば、コンピューター上でマクロ経済のモデルを作り、政策導入のシミュレーションをするのです。あるいは、人々の環境問題に対する価値づけを計測し、それをもとに「この環境問題の対策にいくらまで予算を積むべきか?」という費用と便益の比較も行います。また、仮想的な市場を用意して、実務者に協力をしてもらって実証実験を行うこともあります。こうして、カードの開発だけでなく、「どのカードをどの状況で切るべきか?」という政策カード間の比較も環境経済学者の研究対象となりました。
この40年で新たに発案された政策カードも多少はあります。例えば、行動科学に基づく「ナッジ」を応用したアプローチの環境政策があります。デフォルトの変更や心理学的なグラフで行動変容を促すアイデアです。日本でも環境省を中心に「ナッジ・ユニット」を結成し、多くの概念実証が行われました。また、日本銀行が行う金融政策的なアプローチも登場しました。ネットゼロに貢献する事業への投融資を行う金融機関に中央銀行が貸付を行う「気候変動対応オペ」として導入されています。他にもテクノロジーの研究開発を促し、量産を実現するための「事前買取コミットメント制度」などが考案されています。ただ、いずれもカーボンプライシングほどには目新しく無いかもしれません。
ネットゼロ・イノベーションの総力戦へ
これから日本でもネットゼロに貢献するイノベーターが次々と出てくると思います。CO2を出さずに鉄鋼やセメント、プラスチックを製造する技術。そのための高炉やコンビナートからのCO2回収と地層での貯蔵技術。製造業に利用できる蓄熱技術。ガソリンを使わずに長距離トラックや工作機械を動かす技術。住宅やオフィスビルの断熱技術。風力発電を数カ月に渡って蓄電する技術。クリーンな水素の大規模貯蔵技術。このように数多くの新技術が商用化されて初めて、日本のネットゼロが実現するといえます。
しかし、これらのテクノロジーを使った製品はほぼ間違いなく従来品よりも「高い」です。それをどうやって普及させるか。どうすれば多くの国民に手に取ってもらえるか。起業家と投資家と政策立案者が共にアイデアを出し合い、日本社会に「ネットゼロ・イノベーション」をもたらす必要があります。そのために、環境経済学者も再びイノベーティブになる必要があります。
主な参考資料:
[1] 清水洋,『イノベーションの考え方』,2023年,日本経済新聞出版.
[2] Pigou, A.C. (1929), The economics of welfare. 3rd ed. Macmillan, London.
[3] ウィリアム・ノードハウス,『グリーン経済学』,江口泰子訳,2023年,みすず書房.
[横尾英史:一橋大学大学院経済学研究科 准教授]
専門は環境経済学。経済学の理論と手法を応用して、環境政策に関係する人々の選択や市場の動向を研究。
京都大学にて博士(経済学)を取得。環境経済・政策学会常務理事、経済産業研究所リサーチアソシエイト、国立環境研究所客員研究員等を兼務。2024年度はスウェーデン・ヨーテボリ大学経済学部に滞在中。