高等教育機関の“知”と、産業界の“技術”や“アイデア”を掛け合わせる産学連携。これまで経営学や工学など、さまざまな“知”がビジネスのスキームを使って、世に送り出されている。
しかし、今回ご紹介するのは、ユニークな「医学」の産学連携だ。
「医学」分野での産学連携と言えば、創薬や医療機器の開発がほとんどというイメージを持っている方も多いのではないだろうか。
しかし、今やそのようなイメージは先入観に過ぎない。そのことを教えてくれる大学が、東京医科歯科大学だ。
2021年には三菱地所と提携して「TIP(TMDU Innovation Park)」と呼ばれるイノベーションハブを設置。高度な生化学実験を行えるウェットラボも完備し、シェアオフィスも併設させた。今、まさに入居する民間企業とともに医療・ヘルスケア領域でのイノベーション創出に取り組んでいる。
今回は、東京医科歯科大学・学長の田中 雄二郎氏にインタビューを実施。
医系大学の東京医科歯科大学が、産学連携に積極的に取り組むようになった背景や社会的意義について伺った。
田中 雄二郎
1980年東京医科歯科大学医学部医学科卒業。1985年同大学大学院医学研究科博士課程修了。同大学医学部附属病院助手等を経て、2001年同大学医学部附属病院総合診療部教授に就任、2006年同大学大学院医歯学総合研究科教授に配置換。同大学学長特別補佐、医学部附属病院副病院長、病院長、理事・副学長を歴任し、2020年東京医科歯科大学長に就任、現在に至る。
INDEX
・より多くの人を幸せにするために、産学連携という手段がある
・オープンイノベーションによって既存事業では味わえない新たな喜びを生み出す
・産業界、学術界、それぞれに与えるポジティブな影響
・「“知”の泉」として、社会に貢献していく
・ここがポイント
より多くの人を幸せにするために、産学連携という手段がある
――どうして医系大学の東京医科歯科大学が、産学連携を進めているのでしょうか。
田中:医療の世界だけに閉じるのではなく、さまざまな分野の企業と手を組む方が、社会に対して届けられる価値が大きくなるからです。そもそも私たちは医系の国立大学として社会に貢献し、そして支えられてもきました。つまり、社会とともに歩んでいきたいと考えています。その考え方からすると、「産学連携によって社会に価値を還元していく」というのは必然の流れです。
私たちが持っている“知”を、さまざまな企業の力を通じて、よりよいかたちで社会に届けていく。もしくは、ビジネスの知見を持つ企業の方々に私たちのポテンシャルを引き出していただく。そうすることで社会に貢献したいと考えています。
――ビジネスの力で、医学の知を社会に届けたり、ポテンシャルを引き出したりしてもらう、とはどういうことでしょうか。もう少し詳しく教えてください。
田中:たとえば、本学の研究者は、医療の提供者でもあり、患者さんとの結節点を有する存在でもあります。「こんな不便なところを解消できれば、もっと患者さんのメリットになるのに……」といったイノベーションのニーズやシーズを見つけ出せる重要なポジションにいると言ってもいいでしょう。しかし、これまでは、そのニーズやシーズを見つけ出すことができても、医療関係者だけでその解決策を見つけ出すのが困難なことも多々ありました。
一方で、そのような課題に対してソリューションとなる技術やアイデアを持った企業は世の中にたくさん存在します。だからこそ、まずそのような課題と技術やアイデアをつなぐ場を東京医科歯科大学でつくる。そして、そのソリューションをサービスや商品にして、社会に広めていく。そうすれば、ひとつの医系大学として社会に貢献できる総量よりも、より多くの人を幸せにすることができることに気がついたので産学連携に積極的に取り組むようになりました。
――実際に、これまでどのような取り組みが実現してきたのでしょうか。
田中:まず身近なところで言うと、新たな会計サービス「すぐ帰れるサービス」の開発です。大学病院では、会計の待ち時間が長いことが患者さんにご不便をおかけし、大きなデメリットになっています。そのような課題を解決するため、あるベンチャー企業とともに、医療費をオンライン決済にすることで会計窓口での支払いを経ずにすぐに帰ることができるサービスを開発しました。
このサービスは、当大学病院だけのものではなく、すでに他の病院でも使われるようになっています。新たなビジネスの創出が、新たな価値と便益を創出したことで、利益を享受することができたベンチャー企業、待ち時間がなくなった患者さん、混雑を解消できた病院……それぞれにメリットをもたらすことができました。
田中:それだけではありません。日本電気株式会社(以下、NEC)と取り組んだのが、新たなヘルスケアサービス「NECカラダケア」です。通常、大学病院の理学療法士は怪我や病気をされた方のリハビリテーション治療を中心に取り組んでおり、怪我や病気をしてしまった後でしか患者さんに貢献できないという課題がありました。しかし、「NECカラダケア」では、ケガをする前の方を対象に予防を目的としたプログラムを提供しています。ビジネスのスキームやIT技術に精通しているNECと医学的知見を持つ本学が連携したことで、患者さんのためになる専門性と信頼性の高い新たなヘルスケアサービスを提供できるようになりましたし、収集されたデータを研究活動に還元することもできるようになりました。
私たちが大切にしているキーワードに、「トータルヘルスケア」という言葉があります。この「トータル」という言葉には、物理的な「全体」や「全身」という意味だけでなく、「人生そのもの」といった論理的、精神的な意味も込められているんです。予防医学や死生学などの倫理学、さらにはバイオサイエンスなど範囲を広げれば、実はさまざまな分野が医療と関係していることは歴然となります。そして人生の質を高めるあらゆることが価値の提供範囲となるので、さまざまな企業とともに「新たな医の価値」を創造することが社会貢献になると考えています。
オープンイノベーションによって既存事業では味わえない新たな喜びを生み出す
――そのような産学連携を進めるにあたって、どのようなことを意識していますか?
田中:前提として、大学病院で働く医師や職員たちは、みんなものすごく忙しい。しかも、患者さんを治療すれば目の前で喜んでくださる。日々の仕事をする上では「目の前の患者さんに喜んでいただくだけで十分」となりますから、それ以上の成果を目指す必要がないと考える人も多いです。だから、産学連携のような新たな取り組みに目が向かなくても不思議ではありません。
でも、そこであえて「こんな面白いことがあるんだけど、一緒にやって目の前の患者さんだけでなく、もっと多くの患者さんに喜んで頂けるよ」と背中を押すことを意識しています。なぜなら、外の世界に触れられれば、思いもよらないような光景が待っているかもしれませんから。実際に産学連携に取り組むと、「こっちの方が上手くいくんだ」とか「もっとこんなことが実現できるのか」といった新たな視点を得る人がほとんどです。
しかも、自分一人でプロジェクトを動かすわけではありません。連携する企業の方も協力してくれますから、「思ったよりも大変ではなかった」という感想が生まれることもしばしばです。
プロジェクトを進めていくと、気づいたら、もともと感じていた治療する喜びに加えて、新たな喜びに出会っている。そして一度、成功体験を味わったら、次はまた何か社会に対して新しいことができないかと自然と探すようになる。そのようなサイクルをつくることを目指しています。
――「既存事業で忙しくて新規事業まで手が回らない」という課題に直面しているのは、企業も同じなのではないかと思います。中には「背中を押す」だけでは動かない人もいるかもしれません。オープンイノベーションによって新たな取り組みをしたい企業が、実際にプロジェクトをつくれるようになるには、どのような工夫が有効だと考えますか。
田中:私たちの経験からお伝えすると、オープンイノベーションを目的とする専門部署を組織して、リクルーティングを強化したことが大きかったと考えています。
新規事業では、決して人数は多くなくてもいいので、意欲的なメンバーを集めることが重要です。そのときに、専門部署があれば、覚悟を持って取り組む姿勢を示しつつ、コミュニケーションを取りやすい環境をつくることができます。ただ声をかけるだけでなく、「まずはチームのメンバーと話してみないか」という1クッションがあることで、メンバーを巻き込みやすくなるのではないでしょうか。
産業界、学術界、それぞれに与えるポジティブな影響
――医学分野における産学連携が、大学や病院、企業にもたらしているメリットについて教えてください。
田中:ひとつは、大学で働く医師や職員のキャリア形成です。長年磨いてきた技術や知見を、日々の診療や治療だけでなく、新たなビジネスとして社会に活かしていく。そのような経験は、本人たちの視野を一気に広げるし、日々の診療・治療の場面においても必ずプラスになります。最近では、医師の国家資格を活かしてコンサルティング会社に転職し、その後起業する、といったキャリアパスを歩む人も増えてきました。そのように多様なキャリアの選択肢が生まれてもいいと思っています。
また、連携する企業からは、「自分たちの取り組みが目の前の患者さんたちの役に立っていると実感できる」との声をいただいています。つくったサービスやプロダクトを目の前のユーザーにすぐに提供できて、フィードバックが返ってくる。現場との近さがモチベーションになるようです。
――大学の重要なミッションである教育には、どのような影響を与えているのでしょうか?
田中:学生たちの人間形成にも寄与していると考えています。
本学の医学科には、プロジェクトセメスターと呼ばれる制度があります。これは大学4年時の後半の半年間は通常の授業の代わりに、学生が自分で計画した研究活動に専念できる期間と定めています。その制度を使って、連携しているスタートアップ企業のインターンシップに参加し、ビジネスパーソンとしての経験を積むこともできます。モラトリアムを謳歌していた学生も、数ヶ月後には周囲から「しっかりしてきたね」と言われることも珍しくありません。
医系大学の4年生ともなると、授業や実習だけでなく、医師・歯科医師などの国家試験の勉強を始めたり、社会との接点であるアルバイトも控える人も少なくないと思います。その中で大学のカリキュラムに「社会との接点」を組み込んでしまうことで、将来につながる視野を広げることになるんです。
「“知”の泉」として、社会に貢献していく
――産学連携を進める中で大学のあり方も変わってきているように思います。これからの大学の存在意義について教えてください。
田中:日本にとって、大学とは「“知”の泉」のようなもの。よりよい“知”を創出し、社会に提供して、広げていく。そうなったらもっと大学の見え方が変わると思います。これまでは知を蓄積する場所としての大学でしたが、これからは蓄積された“知”をつなげていったり、開いていったりすることがどんどん求められていくと考えています。産学連携も、その手段のひとつです。
また、今の世の中では、“知”そのものの重要性も高まっています。情報化社会になり、玉石混交のさまざまな情報が飛び交うようになりました。その中で情報の信頼性を担保し、発信し続ける役割を果たしていかなくてはなりません。
――最後にお聞きします。大学と言うと、「閉じられたヒエラルキーのある世界」という先入観を持っている方も少なくはないのではないかと思います。しかし、東京医科歯科大学は産学連携を進め、外に開いた組織として成長を遂げています。現在のようなかたちに辿り着くまでに、何を大事にしてきたのでしょうか。
田中:目の前のささいな事情ではなくて、普遍的な価値を目的に据えて取り組むことです。
コロナ禍で、本学の医療従事者を支えているのは、「世のため人のため」という信念だと感じています。医療行為の提供だけに留まらず産学連携や新規事業を推進するのは、これまでやったことないことにチャレンジすること。もちろん議論の過程では衝突が生まれたり、特許や権利の部分での折り合いがつかなかったりすることもあるでしょう。そんなときに、個々人の事情ではなくて、「世のため人のため」という普遍的な価値を基準に考えていけば、きっといつか、「自分たちが目指しているのはここだった」とまとまってくるはず。実際本学でも、権利部分などは杓子定規に決めるのではなく、目指すことに合わせて柔軟に対応しています。「何のために、この事業に取り組むのか」。その答えを考え、追求していくことが、組織を外へ開いていくエネルギーになっていくのだと思います。
ここがポイント
・東京医科歯科大学が、産学連携を進めるのは、さまざまな分野の企業と手を組む方が、社会に対して届けられる価値が大きくなるから
・ビジネススキームに精通するNECと医学的知見を持つ東京医科歯科大学が連携したことで、新たなヘルスケアサービスを提供できるようになった事例がある
・産学連携を進める上では、大学病院で働く医師や職員たちの背中を押すことを意識している
・もし、オープンイノベーションが進ます苦労しているならば、専門部署を組織するの一つの手段
・産学連携は、医師や職員のキャリア形成、現場とサービスの近さ、教育側面での社会との接点など、さまざまなメリットがある
・”知”の重要性が高まる世の中で、大学は、よりよい“知”を創出し、社会に提供して、広げていくことが求められる
企画:阿座上陽平
取材・編集:BrightLogg,inc.
文:小林拓水
撮影:阿部拓朗