建物や自動車など、私たちの身の回りにあるさまざまな構造物は、どのように性能が確認されているかご存知だろうか。自動車であれば衝突実験の映像を思い浮かべる人も多いだろう。しかし、こうした実験は時間も費用も膨大にかかるため、何度も行うことができない。そこで役立つのが、シミュレーションだ。
シミュレーションは、構造物の形状や実験時の条件などを設定し、複雑な計算をすることで結果を導き出す。このシミュレーションを何百回、何千回と実施して、設計終盤には実験を活用しながら設計を決定していく。
RICOSでは、このようなシミュレーションデータへの適用に特化したAIアルゴリズム「IsoGCN」を開発。「IsoGCN」を用いて、シミュレーション結果を高速に予測するソフトウェア「RICOS Lightning」などを提供している。
シミュレーションとAIを掛け合わせることでどんな価値が生まれるのか。また将来的に、どのような事業展開をイメージしているのか。同社の代表取締役 井原遊氏にお話を伺った。
井原遊
株式会社RICOS 代表取締役、最高経営責任者
東京大学で、CAEアプリケーションを題材に計算科学に関する研究を行う。CAEの利活用が不十分な現状を改善するために、手軽に使うことができるCAE プラットフォーム研究開発や、計算手法の改良による計算の高速化などの研究プロジェクトに従事。博士課程在学中に研究アセット活用のために、東大アントレプレナー道場に出場し、最優秀賞を受賞。その後、2015年12月にRICOSを創業。約20年間のWebサービス運用・開発経験有。
INDEX
・AI×シミュレーションで抜本的な高速化が可能に
・シミュレーション領域からスタートし、AIにたどりつくまで
・シミュレーションによる検討回数を増やし、製品性能の向上に貢献
・最終的には、3D形状の作成とシミュレーションによる性能評価を自動化・高速化する
・クライアントの課題に向き合い、“ハマる”ソフトを作る
・ここがポイント
AI×シミュレーションで抜本的な高速化が可能に
——まず、構造物のシミュレーションとは何か教えてください。
井原:シミュレーションは、様々な使われ方がありますが、設計した構造物の安全性、性能、施工性などを確認するために、実験の前段階で行われることが多いものです。
自動車を筆頭に工業製品は、実験を行って安全性や性能を確かめる必要があります。ですが、実験にはコストも時間もかかりますし、実際にやってみると環境要因などで結果がばらつくことがよくあり、結果の評価が困難となってしまうこともあります。何度も繰り返し実験を行うのは現実的ではないので、「ある程度結果が予測でき大丈夫だろう」とわかったうえで行いたいのです。
そこで役立つのが、シミュレーションです。実験の前にシミュレーションを何百回と行い、そのなかで良い結果が期待されそうなものの当たりをつけます。実験をその最終確認となるように運用できれば理想的です。
——シミュレーションにAIを掛け合わせると、何が変わるのでしょうか?
井原:シミュレーションにかかる時間を大幅に短縮できます。
シミュレーションも、実験ほどではないですが、コストと時間がかかります。特に計算時間が問題で、必要なデータが揃っていざシミュレーションの計算を始めても、1日、1週間とかかることも多いわけです。
この計算にかかる時間は、どこまで詳細な現象を正確にとらえるかとトレードオフです。検討期間が3ヶ月などと事前に提示されると、できることベースでしか考えられません。本当はもっと試行錯誤していいものを作りたいと思っても、できることが限られてしまいます。
そこで、シミュレーションにAIを掛け合わせます。従来のシミュレーションのように物理方程式をすべて解くのではなく、AIが結果を予想することで時間を短縮しています。
——シミュレーションというと自動車はイメージしやすいですが、他にはどういうものに使われているのでしょうか?
井原:シミュレーション自体は、身の回りのさまざまなもので行われています。たとえば、建物で言えば地震に耐えられるかどうかや、ビル風が当たったときに周囲に影響を与えないか、といったこともシミュレーションをします。
自動車に関しても、衝突安全性以外にも燃費に影響する空力性能や、振動・騒音、強度などを見るのにも使われています。部品の話になってくると、例えば、エンジンを冷却するときにラジエータが適切に冷却できるかなどもそうですし、EVやHVでも、バッテリーやインバータを冷却することは大きな課題です。
——そのなかでも、貴社が力をいれておられる流体解析(CFD)は、どのようなもので活用されているのでしょうか?
井原:自動車や航空機の空力解析はもちろん、エアコンによる部屋の気流解析、パソコンなどの電子機器の冷却機構の解析など様々です。一般消費者向けの製品、産業向けの製品ともに広く活用されています。
シミュレーション領域からスタートし、AIにたどりつくまで
——なぜシミュレーションの領域に注目したのでしょうか?
井原:大学院時代に、工業製品のシミュレーション手法について研究していたことがきっかけです。
——どのタイミングで、ビジネスにしようと考えましたか?
井原:私が所属していた研究室では、オープンソースのシミュレーションソフトを開発していたのですが、こうしたソフトは市販だと1ライセンスあたり数百万から1千万円くらいします。本来、気軽に使えないものが手元にある環境にいたことで、シミュレーションソフトはビジネスになるのではと思いました。
ちょうどその頃、学内のビジネスコンテストである東京大学アントレプレナー道場に出場し、最優秀賞をいただきました。そのタイミングで起業し、シミュレーションの周辺領域をサポートする事業を始めました。
——シミュレーションの事業から始め、そこにAIを掛け合わせようと考えたのはなぜですか?
井原:シミュレーションソフトをどこに売るかと考えると、すでに使いこなしている会社、つまり必然的に大企業がボリュームゾーンになります。こうした企業に「良いソフトだ」と思ってもらうためには、価格の話よりも、結果の正確さやサポート体制が重要になりますし、積極的なスイッチングするだけの理由が必要となります。であれば、今のツールでできないことが必要ではないかと考えました。それが2015から2017年頃ですね。
その頃、ある自動車関連産業の会社とたまたまご縁がありました。その会社の課題を噛み砕いて考えたときに、現在のシミュレーション×AIで実現ができそうなニーズをいくつか確認ができました。
井原:最初からシミュレーション×AIでいこうと決めていたわけではありません。その会社との出会いを一つのきっかけにシミュレーションにAIを掛け合わせる研究開発がスタートしました。周辺技術開発や顧客の課題解決で徐々に業務が拡大していくにつれて、シミュレーション×AIという面白いことをしている会社があると認知していただけました。
——そこからどのように現在の事業になったのでしょうか?
井原:2020年頃までは、事業のコアを磨いていこうというスタンスでシミュレーションの周辺技術開発や顧客の課題解決を中心に事業を行っていました。2021年頃に、ソフトウェア化が見えたこともあり、スタートアップ的な振る舞いができそうだと考え、資金調達を実施しました。研究費も取れるようになってきたので、併用して製品化までつながりました。同時期に営業部の体制を整え、2022年頃から製品としてお客さんに対して営業を始めました。
シミュレーションによる検討回数を増やし、製品性能の向上に貢献
——シミュレーションにAIを掛け合わせて、計算にかかる時間を短縮しているとのことですが、どの部分をAIが担っているのでしょうか?
井原:既存のシミュレーションとは異なる計算手法で、過去の結果をベースとして、AIにより結果を直接的に予測します。既存の手法は、物理方程式を数値解析的に解いています。そのため、製品を解析する解像度が決まれば、時間の刻み幅が決まってしまうような性質があり、長時間化してしまう原因の一つですが、当社の手法ではこのような制約を受けなくすることができます。
——AIを掛け合わせることによって、かかる時間はどれくらい変わりますか?
井原:類似の精度で結果を出すことを前提とすれば、1日かかっていたのが1時間くらいになります。計算速度を約100倍にした実績もあります。
——かなりの時間短縮になりますね。シミュレーションの時間が短縮されることで、R&Dの期間も短くできるということですか?
井原:R&Dの期間が短くなることの価値もありますが、一方で同じ期間でより多くのシミュレーションができることのほうが価値としては大きいですね。たとえば、これまでは100回しかシミュレーションできなかったのが、同じ期間で1万回できるようになる。それによって、より良い製品を作ることができます。
——なるほど。シミュレーションにかかる時間が短縮されて、実際に製品の性能が向上したという実績はありますか?
井原:取り組んでいた会社は、長期間かつ大規模な開発プロセスが必要な会社のため、まだ実際の製品にまでは至っていないと考えられます。新しいツールを実務に落とし込むための検証をしているので、このフェーズはまだ1年はかかるでしょう。そこから開発、試作と続くので、製品になるまでにはまだ時間が必要です。
——確かにそうですね。製品性能の向上は、クライアントとしてはもちろん嬉しいことだと思うのですが、その先にはどのようなメリットがあると考えていますか?
井原:各社の製品特徴をより出していけるようになればいいですね。仮に自動車の空力性能を追求したとしても、ある製品は低燃費、ある製品はスポーティな走りと会社×製品の特徴はさまざまです。シミュレーションの時間が短縮されることで、そうした各社の製品ごとの価値の追求に時間を使えるようになると思います。
最終的には、3D形状の作成とシミュレーションによる性能評価を自動化・高速化する
——シミュレーション×AIのお話を伺ってきましたが、貴社ではCADにも関係したGenerative CAEも開発していますね。こちらはどのような経緯で開発に至ったのでしょうか?
井原:将来的なところを見据えながらニーズを捉えて開発しています。
先ほどお話ししたように、シミュレーションの速度が100倍になったら、ベースとなる形状データも数万単位で作る必要があります。ですが、それを手動で作るのは厳しい。将来的に、シミュレーション×AIを広くアプローチすることを考えると、その問題を解決しておかないといけません。
そこで、部品の形状を自由に変化させて設計改良ループを回せるツールを開発しました。CADは関係しますが、CADソフトそのものの開発ではなく、形状変化を自動化するための支援ツールという意味合いが強いです。
——自動車業界以外となると、具体的にはどういった業界で使われるのでしょうか?
井原:たとえば、土木工事に使うような製品が挙げられます。目的とする強度などの性能があるときに、施工性を良くするために軽くする、穴の位置を変更するなど、性能向上と製品使用時の効率化を目的としています。実際に数万ケースの試行をした結果、よりよい設計ができたりしました。
——Generative CAEを作ることによって、最終的にはどういった事業を目指していますか?
井原:Generative CAEは、シミュレーション×AIと組み合わせを行う前にも、効率化を図るプロダクトとしてリリースしていく予定です。2023年10月には、このソフトを用いた、製品形状の自動最適化ツール「RICOS Generative CAE」のβ版をリリースしました。これは、既存のシミュレーションプロセスが組まれていなくても導入が可能で、地域の製造業を含めて広く取り組んでいくことを目指しています。
また、様々な形状の取り扱いの知見を貯めながら、中期的にはシミュレーション×AIのソフトウェアと組み合わせて、複雑な製品を対象としていきたいと考えています。
——形状データを作るところから、シミュレーション×AIで計算するところまで繋げていくということですね。
井原:はい。とはいえ、それには時間がかかるので、できるところから製品化して、クライアントに提供していこうと考えています。
——シミュレーション×AIの主な提供先が自動車業界、Generative CAEは土木製品と、クライアントとなる業界がまったく異なります。どこかの業界に特化していた方がビジネスはやりやすそうですが……。
井原:自動車業界で用いられているシミュレーションも、流体解析だけではないので、業界に特化するとしても、すべての解析を対象にしなければなりません。一方で流体解析を用いている業界は他にもあります。業界に特化というよりも、コア技術と得意な領域を様々な業界の設計・評価業務に当ててみることで「ここならハマりそうだ」とわかってきました。結果的に業界は異なってしまったという感じです。
また、シミュレーション×AIを評価していただくのは、既存のシミュレーションプロセスが組まれている必要があり、多くは大企業となってしまいます。既存のシミュレーションプロセスが定まっていないこともある中小企業に対しては別のアプローチが必要となります。そのプロセスがなくとも実現可能で効率化ができる一例として、製品の形状変更ができるGenerative CAEを提案しています。
——ソフトによって、提案する企業を柔軟に変えているんですね。
井原:そうですね。シミュレーション×AIは、現在は流体解析、熱流体解析を対象としているので、使っていそうなところや困っていそうな会社にご提案して、深く入っていくのが望ましいですね。何万社に使っていただくのではなく、数十社にしっかり使っていただくのが理想です。
クライアントの課題に向き合い、“ハマる”ソフトを作る
——受託で経験積んで、資金調達して、技術を切り売りしてやっていく。とても地に足のついた経営だという印象を受けましたが、それは意識してやってきたのでしょうか?
井原:意識していましたね。私たちが提供しているサービスは、一口にシミュレーションとは言っても、クライアントによって対象としている現象は違いますし、困りごとはさまざまです。その都度、検証して軌道修正して、周辺領域触って……と試行錯誤してきました。派手に資金調達してソフトを作っても、「どの会社にもハマりません」だと困るので、そこは地道にやっていました。
ただ、技術的な領域なので、国によって課題が全く異なるということがないのはいいところですね。最近、海外のお客様にも接触する機会がありましたが、同じような課題を持っていると感じました。技術的な意味で、グローバル展開の可能性が高いものだと考えています。
——シミュレーションやAIの領域で、起業に興味がある人にアドバイスをお願いします。
井原:「本当にそれがクライアントの困りごとなのか」はしっかり確かめてほしいですね。特に、資金調達する際は、その困りごとの解像度の高さが説得力になります。当たり前のことだからこそ、とても大事なポイントだと思います。
ここがポイント
・シミュレーションは、設計した構造物の安全性、性能、施工性などを確認するために、実験の前段階で行われることが多い
・RICOSでは従来のシミュレーションのように物理方程式をすべて解くのではなく、AIが結果を予想することで時間を短縮している
・AIとの掛け合わせにより、計算速度を約100倍にした実績もあり、同じ期間でより多くのシミュレーションができるようになる
・シミュレーションは技術的な領域なので、国によって課題が全く異なるということがない
企画:阿座上陽平
取材・編集:BRIGHTLOGG,INC.
文:溝上夕貴
撮影:阿部拓朗