えび・かに・くるみ・小麦・そば・卵・乳・落花生(ピーナッツ)。これらは、食物アレルギー表示が義務付けられているもので、この8品目以外にもアレルギーを引き起こす食べ物はたくさんある。食物アレルギーを持つ子どもたちは、こうしたアレルゲンとなる食べ物を避けながら生活しており、外食を楽しめないなどの悩みを持つ家庭も多い。
そんな悩みに寄り添い、楽しくておいしい食事を提供しているのが「matoil(マトイル)」だ。matoilでは、一人一人の食物アレルギーに対応した、オーダーメイドの食事を提供する「anniversary meal kit」などのサービスを展開している。
実はmatoilは、京セラの新規事業アイデアスタートアッププログラムから生まれたサービス。代表の谷美那子氏はもともとUI・UXデザイナーで、経営や事業作りの経験があったわけではない。今回は、matoilが社内の新規事業として生まれた背景や、デザイナーならではのスキルが事業作りに生きた点などについて、matoil代表の谷氏にお話を伺った。
谷美那子
京セラ株式会社 経営推進本部 本部室Sプロジェクト責任者 兼 matoil開発課責任者
金沢美術工芸大学製品デザイン専攻を卒業後、三洋電機に入社。京セラへの転籍後、通信機器事業本部にてUIUXデザインを担当。ボトムアップによる新規事業創出の取組みである社内Start Up Programの選考を通過し、2021年10月より食物アレルギー対応サービス「matoil」を開始。自身の原体験から、当事者だけが課題を抱えることのない社会の実現を目指す。
ポイント
・新規事業プログラムに応募しした理由は、UI・UXデザイナーの自分が事業に貢献できるのかわからなくて、行き詰まっている感覚があり、新しい知見を得たいと思ったから。
・当初は、飲食店と食物アレルギーを持った顧客のマッチングアプリケーションを想定していたが、飲食店への導入フェーズで時間がかかっては、食物アレルギーがある人にまでたどり着かないため、自分たちが事業者として食事を届けることを考えた。
・食物アレルギーを「○○アレルギー」の一言ですべてを把握するのは難しいため、1組に対して1時間ぐらい話すこともあり、それが信頼関係やリピートにつながっている。
・UI・UXデザインの仕事で得た、「顧客起点で考えること」は事業づくりにも役立っている。課題を資料で見る、ペルソナを立てるのではなく、「実際のお客さまが楽しそうに食べる」シーンを作っていくことが「デザインしてる」ことだと考えている。
・デザイナーや専門職の人が新規事業を作る際には、いきなり数字を積み上げるのではなく、当事者が抱える課題をイメージできるようにストーリーを思い描くのが重要。
INDEX
・食物アレルギーを持つ人も、食事を楽しめるように
・お客さんと「話す」ことで、信頼関係を築く
・デザイナーとして、お客さんが喜ぶシーンを作りたい
・ストーリーを思い描いて、具体的な数字は検証していく
・matoilの取り組みが広がれば、アレルギー当事者の行動範囲も広がっていく
食物アレルギーを持つ人も、食事を楽しめるように
——まず、谷さんの経歴を教えてください。
谷:金沢美術工芸大学・製品デザイン専攻の出身で、プロダクトデザインの勉強をしていました。新卒で三洋電機(2008年に、携帯電話事業を京セラに売却)に入社し、それからずっと携帯電話の部門でインハウスのデザイナーとして、UI・UXに関わる仕事をしてきました。
私が入社した2004年当時はUIという言葉が出始めた頃で、私がUIデザイナーとしては一人目の社員。アドバンスドデザインと言われる先行開発のようなプロジェクトに携わったこともありました。
——新規事業を提案してみようと思ったきっかけは何ですか?
谷:2018年に始まった、新規事業アイデアスタートアッププログラム制度に応募しました。当時はどうすれば自分が事業に貢献できるのかわからなくて、行き詰まっている感覚がありました。何か新しい知見を得たいと思ったのが応募のきっかけです。
——matoilは、プログラム応募時点ではどのようなサービスを想定していましたか?
谷:飲食店とユーザーのマッチングツール、もしくは飲食店向けのコンサルティングツールをイメージしていました。飲食店が食物アレルギーを持ったお客さまを迎えるときに、対応しやすくなるようなアプリケーションを考えていましたね。
——応募時点の案では、どこにユーザーの課題があると考えていたのでしょうか?
谷:私が食物アレルギーを持っているということもあって、同じように食物アレルギーがある人の課題解決をしたいという思いがスタート地点でした。
最近では、使っているアレルゲンを表示している飲食店が増えてきましたが、応募した当時はまだまだ少なくて。私のような食物アレルギーがある人は、原材料について店員さんに聞くのですが、店員さんもアレルギーに関して完璧な知識があるわけじゃない。そこで誤った情報が伝わると、誤食してしまう可能性もあります。
なので、まずはユーザーがアレルギーに関する情報を受け取りやすくしたい。それに加えて、ユーザーが持っているアレルギー情報が、厨房に正確に伝わったらいいなと思っていました。
——なるほど。そこから、現在の「食事を提供する」サービスになるまでに、どのような変遷があったのでしょうか?
谷:飲食店とユーザーのマッチングツールにしても、飲食店向けのコンサルティングツールにしても、まずは飲食店にアプリケーションを導入してもらう必要があります。ですが、導入のフェーズで時間がかかってしまっては、食物アレルギーがある人にまでなかなかたどり着きません。しかも、そのツールが本当に解決につながるのかは、運用してみないと分からない。
このような課題があるなかで、当時のチームのリソースを鑑みてできることをぶつけてみようと思い、自分たちが事業者として食事を届けることを考えました。これは立ち上げ当時から、シェフが関わってくれていたから実現できたことです。実際に、仮説検証の一つとしてやってみたらすごく評判が良くて、サービスの方向性が定まっていきました。
——とはいえ、アプリケーションでいくかどうか、迷いもあったと思います。最終的な決め手は何だったのでしょうか?
谷:2020年のICC(INDUSTRY CO-CREATION)に出場する機会をいただいたこともあり、いったん食事提供の方向性でいこうと決めました。それで仮説検証の一環で、1組のご家族をシェフのお店に招いて、アレルギー対応の料理を食べてもらったんです。そうしたら、私の予想以上に喜んでいただけて。その反応が一番の決め手かもしれないですね。
お客さんと「話す」ことで、信頼関係を築く
——matoilでは、どのようにお客さまの食物アレルギーを確認しているのでしょうか?
谷:とにかくたくさん話すことです。1組に対して1時間ぐらい話すこともあります。matoilはあらかじめ決まったメニューなどがないので、コミュニケーションを取ることを大事にしています。とはいえ、事例を重ねることで「これは少し話せば大丈夫」とか、「アンケートに答えてもらえれば適切なものを届けられる」とか、完全にオーダーメイドじゃなくても対応できるケースも見えてきています。
——「話す」やり方だと、1組に対するコストがすごく上がってしまいそうですが……。
谷:そこは、商品を作るための経費とは見ていません。
食物アレルギーは人によってさまざまなので、お客さまの安全のために必要ですし、私たちとしても直接話して納得したうえで利用していただきたい。お客さまもやっぱり不安があるので、話をしたい、聞きたい人が多いです。また、私たちが事業を進めていくうえで、ユーザーのことを理解する意味合いもあります。
——食物アレルギーは人によってさまざまとのことですが、どのような例がありますか?
谷:何品目もアレルギーを持っていて、食べられないものがたくさんあるという方もいれば、たった一品目でも命に関わるアレルギーを持っている方もいます。
あとは、大豆アレルギーと一言で言っても、少しでも大豆が入っていると食べられない人もいれば、味噌や醤油などの調味料は食べられる人もいて、人によって線引きが違います。「○○アレルギー」の一言ですべてを把握するのはすごく難しいんです。
ほかにも、レストランが原材料を完璧に把握するのが難しい場合もあります。たとえば、「にんにく」のアレルギーを持つ人がいたとします。でも、にんにくは原材料の表示上では「香辛料」でまとめられてしまうこともあるので、レストラン側ではその食品に、にんにくが使われているかどうか、正確にはメーカーに問い合わせないとわからないんです。
——アンケートではわからないことも多いから、実際にお客さまと話すことが大事なんですね。
谷:話をして、何なら食べられるか、普段何に気をつけているか、ときには家で使っている調味料を教えてもらうこともあります。それがマトイルとお客さまとの信頼関係につながって、「次もmatoilを利用したい」と思っていただける要素にもなっています。
——1食いくらぐらいで販売されているんでしょうか?
谷:ものによって違うのですが、先日販売していたおせちは3段で3万3000円。1段目、2段目はお料理で、3段目はスイーツで埋め尽くしました。
——これから事業として大きくしていくときに、課題に感じていることはありますか?
谷:製造体制のあり方や場所、考え方などは、今まさに直面している課題ですね。どんなアレルギーを持つ方にも対応したいという思いでやっていますが、複数のお客さまの料理を一緒に作るケースを考えると、ときにはユーザー同士のアレルゲンが交差してしまうこともあります。どうすれば事業としてスケールしつつ、ユーザーのニーズも満たせるのかは悩んでいるところです。
デザイナーとして、お客さんが喜ぶシーンを作りたい
——これまでUI・UXデザインに関する仕事をされてきて、そのスキルが新しく事業を作っていくうえで役立ったことはありますか?
谷:顧客起点で考えるのは私の得意なところなので、そこは事業を進める上で生きていると思います。あとはこれまでの仕事で、調査や分析をして、それを製品に反映するっていう一連の流れを一通り経験していたので、それぞれの施策や検証を「何のためにやっているのか」明確にしながら取り組めていると思います。
——「顧客起点で考える」ことに関して言えば、どんなやり方がデザイナーならではだと思いますか?
谷:実際のお客さまのことを想像しながら、商品を作っているところでしょうか。たとえば、メンバーを交えて新しい商品を考えたり、振り返りをしたりするときには、お客さまの名前を具体的に出して話し合います。「あの子はこういう商品を喜んでくれそうだよね」とか「もっとこうした方がお母さんも安心だったかな」とか。共通のN1をイメージして考えるのです。
でも、それって普段の事業ではなかなか難しいことだと思うんです。特に大企業だと、仕事が細分化されているので、お客さまとの距離がすごく遠かったり、近づけなかったりということが起こりがち。matoilの場合は、お客さまとダイレクトに会話する機会を作っているので、顧客起点での商品作りができているんだと思います。
課題を資料で見るとか、ペルソナを立てるとかじゃなくて、「実際のお客さまが楽しそうに食べる」シーンを作っていくことが、私のなかで「デザインしてる」ってことなのかなと思います。
——お客さまをしっかり観察して、その反応をすごく大切にされているんですね。
谷:あとは、事業検証の段階からしっかりとお金をいただいているのも、お客さまの反応を重視しているからですね。「いいサービスだね」と言ってもらうのと、本当にお金を出して利用してもらうのは別物です。考えた商品やサービスが、お金を出してでも利用したくなるほど魅力的なものになっているのかどうか。お客さまが喜んでくれる、お金を払ってでも利用してくれるっていうのが、「この方向でいいのか」を判断する大きな材料になっていますね。
——お客さまの反応が、事業や商品に影響を与えた具体的な事例はありますか?
谷:matoilではもともと、お祝いの日の「ごちそうキット」など、楽しいシーンで活用してもらう商品を出していました。それは、楽しい食の時間を一緒に作り上げることが、また次の利用機会につながると考えていたから。
でもあるとき、お客さまからのご相談で、修学旅行先に食事を届けるといった、課題解決型のサービスを始めることになりました。これは、「食べられないことが、行動そのものを制限してしまう」という強い課題を解決するものです。マトイルに課題解決を求めて利用してくださった方は、次に楽しさを求めて来てくれるのだろうか?というところが不安だったのですが、ちゃんと後日また利用していただけたんです。これは嬉しい発見でした。どんな接点であっても、きちんとお客さまに向き合えば次につながるというのは、私たちにとっても自信になりました。
——逆に、デザイナー出身で苦労していることはありますか?
谷:経営にまつわる仕事は経験がなかったので、今も数字の話は苦労しています。もう本当に呆れるくらいできないので、周りの人に助けてもらっています。
ただ、助けてもらうにしても、全てを丸投げするのではなく、粗くてもいいから何かしら数字を出すことは大事だと感じています。そうすることで、私の目指しているもののイメージが周りに共有できますし、それを土台にして議論が深まることもありますね。
ストーリーを思い描いて、具体的な数字は検証していく
——デザイナーはもちろん、専門職の人が新規事業を考えるにあたって、伝えたいことはありますか?
谷:いきなり瑣末な数字を積み上げるのではなく、まずはストーリーを思い描くのがいいと思います。たとえば、お客さまはこんな人で、私たちが事業展開したらお客さまはこう変わっていって、最終的にはこんな世界ができる、といった感じです。そうすれば、「お客さまって何人くらい?」「それっていくら?」「そこから計算するとざっくり何億ぐらい?」と、具体的な数字を出していくことができます。
課題感の提示も同じです。食物アレルギーがあるのは全人口の1〜2%というと市場が小さく感じますが、世帯単位にすると13.9%と一気に数字が大きくなります。アレルギーがある人は家で1人だけ違うメニューを食べているわけじゃなくて、家族に卵アレルギーの人が1人いたら、食卓に卵料理が出てこない家庭の方が多い。そういった実情を伝えるときに13.9%という数字が生きてきて、当事者以外の人にも「これは家族の食事の問題なんだ」と考えてもらえるようになる。単純に、ターゲットは何%って示すのではなく、当事者が抱える課題をイメージできるようにするのが重要ですね。
——粗くストーリーを作ったら、それはどのように検証していくのでしょう。
谷:実際に取り組んでいくなかで、わかることが多かったですね。
ある学校の先生から、4年生は100人くらいいて、アレルギーを持つ子がこれぐらいいて、なかでも2人は重度の症状がありみんなと一緒にご飯を食べられない、と相談を受けたことがありました。アレルギーがある子が何人いるかって、なかなか正確な統計がなくて、特に重症度も含めると把握が難しいんです。でも、こうして実際に相談を受けると実数値として上がってくる。それを繰り返すことで、裏打ちされていきました。
——新規事業をやろうと思ったらどこかでつまずくと思うんですが、そういう人に対してのアドバイスはありますか?
谷:どこでつまずくかは人それぞれですが……既存事業の価値観にはまってしまうと、抜け出すのが難しいと思いましたね。
たとえば、私は携帯電話の部門にいたので、機種別で見る癖がついていたんです。そうすると、matoilでも、イベントで採算が取れているか、レストランで採算が取れているか、と分けて見てしまっていて。自分たちの施策ごとに考えていたら、それぞれのお客さまとmatoilとの関係性が見えなくなってきてしまったんです。
そんなときは、喜んでくれた人のことを考えるようにしました。「おいしかったです」「また来ます」と言って支えてくれる人が一人でもいれば、たとえ施策が失敗していても、「喜んでくれる人のために頑張ろう」と思えました。
matoilの取り組みが広がれば、アレルギー当事者の行動範囲も広がっていく
——この先、事業としてはどのように展開していきたいですか?
谷:私たちがまだ出会えていない、matoilを必要としてくれる人に、どんどん届けていきたいです。
あと、matoilだけで変えていくのが難しいものは、他の事業者さまとも協力しながら変えていきたいです。
例えば災害時は食物アレルギーがある人への対応が難しいので、matoilとして何かできることはないかと思案しているところです。
——今後、一緒にやっていきたい企業や業界はありますか?
谷:これまでは当事者やそのご家族向けに展開していたんですが、最近は小売やレストラン、ホテルなど、さまざまな事業者さまに興味を持っていただいています。たとえばレストランやホテルなら、matoilのキットを常備してもらって、食物アレルギーのお客さまが来たらそのキットで対応していただくとか、matoilと一緒にそのお店独自のアレルギー対応メニューを開発するのもいいですね。
matoilの取り組みに賛同してくださる方が増えると、当事者の行動範囲もより広がっていくと思うので、私たちとしてもさまざまな事業者さまと一緒にやっていきたいです。
——食物アレルギーがある人はさまざまな場所にいるからこそ、幅広い企業と一緒にやっていく可能性があるんですね。
谷:はい。私たちが予想もしていないような取り組みに、matoilがぴったりはまることがあると思います。昨年TMIP Innovation Awardで最優秀賞を受賞したご縁から、様々な方が働く丸の内エリアにはアレルギー対応食を含むグルテンフリーやヴィーガンにも対応するお弁当の需要があるということで、オフィスで働く方向けにお弁当のデリバリーサービスをされている「MARUDELI」とともに、新たにmatoil(マトイル)のお弁当を開発したこともその一例です。食物アレルギーの文脈ではもちろん、お子さまを対象にした事業にも相性がいいと思いますし、賛同してくださる企業が増えることで、アレルギーがある当事者の行動範囲をより広げていけたらと思っています。
※matoilは2024年5月30日より東京、丸の内エリア(大手町・丸の内・有楽町)の店舗メニューを中心としたお弁当デリバリーサービス「MARUDELI」とともにアレルギー対応食を含む、グルテンフリー、ヴィーガンにも対応するメニューラインナップの開発、提供を開始しています。
企画:阿座上陽平
取材・編集:BRIGHTLOGG,INC.
文:溝上夕貴
撮影:幡手龍二