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動き出した日本のGX政策|環境経済学から見るクライメートアクション vol.1

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2020年10月に当時の菅義偉内閣総理大臣が、日本として2050 年までに温室効果ガス(GHG)排出量を「ネットゼロ」にまで減らす目標を掲げました。日本のGHG排出量の9割がCO2であり、ネットゼロは「カーボンニュートラル」、「脱炭素」、「実質ゼロ」とほぼ同じと考えて差し支えありません[1]。GHGの排出を減らし、それでも排出した分はすべて何らかの方法で吸収することを意味します。

時を同じくして、海の向こうのアメリカでは政権交代が起きました。そして、莫大な予算の産業政策として「気候変動対策となるテクノロジー」への後押しが始まりました。こうして、2021年にはベンチャーキャピタルの間で「ClimateTech(クライメートテック)」という言葉が流行し、この領域に巨額の投資がなされました。2024年現在は比較的落ち着いたものの、それでも多額の民間資金とアメリカ政府の予算が、ネットゼロを目指してClimateTechの社会実装と商用化に取組む企業などに流れ込んでいます。

さて日本はどうでしょう。今回は政策について見てみましょう。

INDEX

日本政府のクライメートアクション
制度設計が進む「カーボンプライシング」
世界でも一風変わったカーボンプライシングが日本で始まる
コラム連載に向けた自己紹介
たまには学者の話でも

日本政府のクライメートアクション

日本では、菅総理の宣言を機に、急ピッチで予算措置と政策立案が始まり、2021年6月に「グリーン成長戦略」[2]なるものが策定されました。ネットゼロという気候変動の緩和を実現するために、それとは一見すると矛盾する「成長戦略」が作られたのです。こうして日本の気候変動政策が産業政策と組み合わされることになりました。

成長戦略の策定と前後して、「グリーンイノベーション(GI)基金」がつくられました。その規模なんと2兆円。この政府基金を使って、主にエネルギー産業やCO2を大量に排出する産業でR&Dと実証(PoC)に取り組む事業者への助成が始まりました。国内の関連事業者や商社がこぞって応募を検討しました。なお、本助成は2022年度には3000億円、2023年度にはさらに4500億円余りの予算が積み増され、公募が続いています(2024年7月 現在)。
そして、これらの政策を日本政府は「グリーン・トランスフォーメーション(GX)政策」と名付けました。

GI基金は主に大手事業者を対象としていると言えます。これとは別に、2024年度からはスタートアップ向けの政策も始まります(「GX分野のディープテック・スタートアップに対する実用化研究開発・量産化実証支援事業」)

これまでも政府は300億円規模の予算で幅広い分野のディープテック・スタートアップの支援を行ってきました。その中からネットゼロの実現に繋がるテクノロジーを切り出して、そこだけで新たに年間300億円規模の「ネットゼロに取り組む起業家」支援を開始するのです。さらに、この起業家のPoCへの助成以外にも、様々な手段で「GXスタートアップ創出」に向けた事業や政策が立案されています。

制度設計が進む「カーボンプライシング」

助成の一方で、「カーボンプライシング」と呼ばれる、排出抑制のための政策も進んでいます。カーボンプライシングとはCO2を排出することが金銭的な負担になるようにする一連の政策を指します。これにより、CO2を排出せずにつくられるプロダクトとの価格差を縮めようというわけです。日本政府は「成長志向型カーボンプライシング」という名前を付けました。その制度設計の詳細はまだ公表されておらず、まさに現在、政府内で議論が行われているのでしょう。ただ、おおむねのスケジュールは公表されています。

まず、2023年度から「排出量取引の試行」が始まっています。ここでは後述するGXリーグなるものが設立されました。続いて2026年度には排出量取引制度の本格稼働が予定されています。その後、2028年度には「化石燃料賦課金制度」の導入、2033年度には「発電事業者向け有償オークション」の導入と続く計画が公表されています。この賦課金制度と有償オークションでGI基金やGXスタートアップ支援事業の財源とする目算のようです。

さて、新しい制度は時に新しいマーケットを生み出します。また、そもそもGI基金とGXスタートアップ支援ではイノベーションを政府予算で振興をしているわけです。つまり、新しい制度と政府予算がネットゼロに向けて動き始めているのです。ここからどんな新しいプロダクトとサービスの市場が生まれ、どんな未来が私たちを待っているでしょうか。

世界でも一風変わったカーボンプライシングが日本で始まる

日本のカーボンプライシングはまだ本格稼働前といえます。まだ出来ていないものを解説するのも変な話ですが、公表されている資料を基に、私の専門の観点から少し解説を試みます。中でも今回は「排出量取引」についてです。

この排出量取引という制度は1980年代に経済学者が編み出しました。環境問題に取り組む制度として「規制」と「市場メカニズム」を組み合わせる形で考案されました。その後、気候変動のみならず、大気汚染や水汚染でも世界のあちこちで応用されています。

環境経済学の教科書的に排出量取引を説明すると、ある市場全体で排出を許してもいいCO2の総量をいったん政府が決めて規制します。その上で、個々の事業者らに「排出権」を割り当てます。そして、その排出権の余った分の「市場取引」を認める制度です。CO2の排出総量を政府規制や国際交渉で決められるトップダウンな面と、割り当てられた排出権を事業者らがB2Bで自由に取引できるボトムアップな面の両方を備えた制度です。トップダウンで排出総量を規制するので、「基準年から40%削減」といった形で目標をクリアにでき達成しやすくなる特徴があります。それでいて、排出権を分権的に取引できる市場メカニズムを活かすので事業者にとっては「排出削減」する選択肢に加えて「排出権の購入」という選択肢が増えて、自由度が増します。

ネットゼロ実現のためにこの政策の採用が世界各国で進んでいます。一番有名なのは約20年前に始まったEUの排出量取引制度(EU ETS)です。また、京都議定書の頃には国と国の間の排出量取引の整備も進みました。ところが、今回、日本全体で始まる排出量取引は教科書的なものとはちょっと異なります。どう異なるか、そのキーワードは「自主的(ボランタリー)」です。日本で始まるのは事業者の自主性を尊重した「自主的な排出量取引」なのです。

まず、この制度への参加が自主的です。そして、この制度に参画する企業グループの名前が「GXリーグ」です。2023年度にこのリーグがキックオフしました。

この「自主的参加」は他国の制度と比べて特徴的です。なぜなら、他国の制度では産業や工場の規模で参加が義務付けられていることが一般的だからです。

そして、個々の事業者の排出権の設定も自主的です。個々の事業者が自ら目標=排出権にコミットし、それの余った分を売る事業者と超えてしまった分を買う事業者がこれまた自主的に取引する想定です。この点もまた特徴的です。他国の制度では政府が排出権をトップダウンで規制するか、排出量のオークションなどを実施するからです。このように、日本が予定しているのは他国の制度や教科書的なものと比べると一風変わっています。

「こんな制度に自主的に入る企業がいるだろうか?」と思うかもしれません。実際、欧米の感覚だと、参画するインセンティブが事業者に無いように見えます。ところが、2023年3月時点ですでに747社もの企業がGXリーグに参画済みです。この日本独自の政策がどう機能し、CO2の排出を減らし、イノベーションの創発に繋がるか。ここに注目です。

コラム連載に向けた自己紹介

申し遅れましたが、一橋大学経済学部で「環境経済学」の教員をしている横尾と申します。このたび、このxTECHウェブサイトでコラムの連載をすることになりました。以前にはこちらのインタビューもしてもらいました。

環境経済学の研究トピックとしては、気候変動をはじめ、生物多様性保全や大気・水汚染やエネルギーを対象とした研究もあります。そして、環境破壊や汚染が経済に及ぼす影響の評価やカーボンプライシングの制度設計などの研究があります。その中で私自身は、環境に配慮した製品(グリーン製品)の市場の「動向調査」や消費者と事業者の「環境に配慮した行動」の研究をしています。これらの研究では、ランダム化比較試験、フィールド調査、行動経済学理論などを使います。そして、消費者や事業者のデータの解析も行っています。

さて、率直に言うとこれまでの環境経済学では「イノベーション」や「ビジネス」よりも「政策」の研究がメインでした。もちろん、多少は「イノベーション」で環境問題に取り組む研究もあったのですが、メインストリームではありませんでした。

2021年の終わりから、日本国内でも動きの早いベンチャーキャピタリストたちがClimateTechやネットゼロ政策についての情報収集と発信を開始してくれました。いくつかの自主勉強会やミートアップが開催され始め、慌てて私も、そういった方々の会にお邪魔するようになりました。それから2年半ほど経ちます。

たまには学者の話でも

突然ですが、一橋の教員でありながら、2024年度の私はスウェーデンで暮らしています。渡欧直前に先のインタビュー取材をしていただき、現在はこのコラムをスウェーデンで書いています。なぜスウェーデン?と思われる方もいるでしょう。その理由や、スウェーデンのClimateTechとネットゼロについての記事も今後の連載できっと書くことになるでしょう。

2021年まで、「学問」のことばかり考えてきました。就活もせず、博士課程まで大学にいて、その後も国立の研究所や大学やらでしか働いたことがありません。ビジネスから縁遠い「社会科学系の大学」という浮世離れしたところから、このxTECHウェブサイトの読者のみなさんに届くコラムを書けるのか……。気負わず、「学者の話もたまにはいいか」なんていう風に、気分転換にでも読んでもらえればと思います。

今回は日本で主に政府が気候変動対策、すなわち、「クライメートアクション」に本腰を入れ始めた話をしました。次回は米国・欧州・中国で政府だけでなく、起業家や投資家も動き出している話をします。日本でも立ち上がり始めたネットゼロ・エコシステムの創成に向けて、環境経済学者の視点からその後も連載していく予定です。

「どんな未来が待っているでしょうか」と前述しましたが、受け身な文章でしたね。このコラムをご覧の方々は、イノベーションとビジネスで「未来を創り出していく」方々だと思います。

これから、イノベーションの社会実装で日本、アジア、世界をネットゼロ化していくことに興味を持ってくれるスタートアップ関係者が増えると嬉しいです。そして、ネットゼロに貢献する事業を始めよう、そんな事業をするチームに参画しよう、同時に制度や政策もより良くしていこう、なんて考えてくれる「同志」が増えることを楽しみにしています。これから、どうぞよろしくお願いします。

[1]増井・髙橋・亀山, 2022「序論:ネットゼロに向けた世界の中での日本
[2]正式名称は「2050年カーボンニュートラルに伴うグリーン成長戦略」

[横尾英史:一橋大学大学院経済学研究科 准教授]
専門は環境経済学。経済学の理論と手法を応用して、環境政策に関係する人々の選択や市場の動向を研究。
京都大学にて博士(経済学)を取得。環境経済・政策学会常務理事、経済産業研究所リサーチアソシエイト、国立環境研究所客員研究員等を兼務。2024年度はスウェーデン・ヨーテボリ大学経済学部に滞在中。