仕事だから無理をしても当然だと考える、いつからかそうなってはいないだろうか。波風を立てないために自分を抑え込み、多少のストレスは我慢で乗り越える。そんな人々は、決して少なくない。
ただし、その代償として残るものは、時として残酷なほど大きなものだったりする。自らの心を犠牲にすることを、当然のように思ってはならないのだろう。
今回は、オンラインカウンセリングサービスを提供するcotree代表の櫻本氏に話を伺った。私たちが、自分の心を第一に考えるためにできることを、取材を通して見つけていく。
INDEX
・仕事内容は変わらないのに、仕事を楽しめなくなっていた
・なぜ、私たちは自分と向き合えないのか
・まずは、日常的に心の調子と向き合う時間を設けてみる
・心が変化を求めていることを、受け入れ、行動してみよう
・ここがポイント
櫻本 真理(さくらもと・まり)
京都大学卒。大学を卒業後、モルガン・スタンレー証券へ入社。その後、ゴールドマンサックス証券を経て、株式会社cotreeを設立。オンラインカウンセリング「cotree」などを運営。
仕事内容は変わらないのに、仕事を楽しめなくなっていた
オンラインカウンセリングサービス「cotree」の生みの親である櫻本氏は、以前、自分自身との向き合い方に悩んだひとりだ。当時の経験を振り返りながら、cotree誕生までのストーリーを語ってもらった。
櫻本「わたしは、cotreeの事業を始めるまで、ゴールドマン・サックスで証券アナリストとして働いていたんです。正直、天職だと当時は思っていました。人と話すのも、調査のために取材をするのも、データ分析をするのも、どれを取っても楽しくて。仕事が大好きだ、と感じていました」
櫻本氏に変化が訪れたのは、2008年のリーマン・ショック後。業界の不安定さは、櫻本氏の感情をも不安定にさせたのだという。
櫻本「よく考えると最近全然眠れていない、という日が続いていました。その当時は意識していなかったですが、今振り返れば、リーマン・ショックによる業界の雰囲気の悪さは影響していたと思います。金融業界全体が震撼としていた当時、周囲でどんどんと友人がリストラされていく姿を見ていたんです。それが、わたしの心には重くのしかかっていました」
仕事内容が変わったわけではない。ただ、一緒に未来を作るはずだった仲間たちが、業界から姿を消す様子を見ていた櫻本氏は、将来への希望を持てなくなっていた。業界全体も報われず、仕事そのものに価値を見いだせなくなったのだ。
櫻本「元々は会社に対してのコミットメントも強い方だったと思います。でも大切な同僚たちを次々とリストラするような会社を、次第に愛することができなくなってしまい、自分の仕事への姿勢について考えるようにもなりました。次に何をやっていこうと考えているタイミングで、メンタルヘルスに関連することも合わせて学び始めたのです。そうして、cotreeが生まれました」
櫻本氏自身、メンタルの不調が自分自身の未来を考えるきっかけだった。顕在化はしていないが、日本人の多くが、同じようにメンタルの不調を抱えながら生きているのでは。そう考え、まだ未熟な市場だったメンタルヘルス領域で起業、cotreeを立ち上げたのだ。
櫻本「働く中で、思い悩み、苦しむ人はすごく多い。ところが、それを言語化して解決できる場所は日本にほとんどありません。市場が未熟なら、わたしが成長を促し、誰でも気軽にメンタルヘルスのことを考えられる世の中を作るべきだと考えました。cotreeは、そんな想いを元にして2014年に産声を上げました」
なぜ、私たちは自分と向き合えないのか
自分の仕事について、向き合う人が少ない──。櫻本氏は、そう日本人の特徴を表現する。1億2,000万人もの大きな主語である「日本人」の言葉を用いて語れてしまうほどなのは、なぜなのだろうか。
櫻本「日本には、伝統として“人に合わせる”文化が育っているからだと思います。昔から、協調的であることが当たり前だった私たちの文化では、周囲に迷惑をかけないことが善、自分だけ異を唱えることが悪、とされてきたのです」
周囲が選択した答えが、自分の答え。それが、日本人たる選択。私たちの価値観の多くは、そんな文化によってできている。だからこそ、時代が変わりつつある今、私たちの多くは戸惑いを抱えているのだという。「選び取る」ことをしてこなかった人々に、今の時代の「どう生きる?」の問いは、むしろ酷なのである。
櫻本「今は、働き方も生き方も、誰もが自由に選べる時代です。だからこそ、私たちは悩みます。周囲の意見が自分の意見であることが今までは当たり前だったのに、突然『あなたはどう生きたいの?』と聞かれるのですから。答えの探し方だって、まだまだわからないはずなのに」
本来、私たちはもっと自らの人生に寛容であって良いはずだ。ところが、一見、良い言葉のように聞こえる「自由」は、場合によっては人をがんじがらめにだってする。
櫻本氏は、カウンセリングやコーチングは、そんな自分と向き合うための要素のひとつとなり得ると捉えているのだそうだ。
櫻本「2000年以降、うつ病で悩む日本人の数は増加傾向です。うつ病の生涯罹患率は7%。友達が100人いれば、7人は一生に一回はうつ病にかかります。うつ病は、特別な病気でもなければ、心が弱いから患うわけでもありません。そう捉えられるようになってきた今、やっと素直に自分自身と向き合う人口も増えてきているのではないかなと。そして、その先に、カウンセリング、コーチング、マインドフルネスなどの浸透があるように感じています」
まずは、日常的に心の調子と向き合う時間を設けてみる
「自分自身がいかに自分らしく生きるのか」というテーマと向き合うことの重要性や必然性が少しずつ広まってきている今、自分との対話を行いたいと考える方も決して少なくない。ところが、どうしたら向き合うことになるのかと悩むこともあるだろう。櫻本氏は、そんな方に向けて、まずは3つのポイントを意識しながら生活してほしいと語る。
櫻本「生活習慣・気分の変化・身体状態の変化に着目してみてください。常に意識するべきとは思いません。まずは、1日1分でもいいです。昨日よりも、先週よりも『呼吸が浅いな』とか『背中が痛いな』などと感じたら、それはきちんとした身体からのSOSなんです。SOSを受け止めるために、自分の調子に意識を向ける習慣が必要なのです」
とくに、心が負担を抱えているときに現れやすいサインは3つある。日頃の自分を見つめ直す中で、これらのサインが表れたときには、ストレスを抱えてい ないか、自分と向き合ってみてほしい。櫻本氏は、そう語ってくれた。
櫻本「思考力の低下・睡眠の浅さ・人と会うことへの抵抗感。まずは、この3つのサインを意識してみることから始めてみてはいかがでしょう。これらの要素が表れているときは、自分にストレスがかかっていることが多いんです。私たちは、心身のサインにすぐ目を瞑ろうとしてしまいます。それは、自分が弱い人間だと認めたくないと思っていたり、苦しさが吐露できる社会ではないと思っているから。もちろん、最初からすべてのサインに気づき受け止めることは大変です。少しずつでいいから、自分自身を、周囲の様子を、当たり前のように見つめて認められる文化ができたらと思っています」
“心身ともに〜〜”と表現されるように、心と身体は密接な関係を持つ。心に負担がかかっているときには、身体だって調子良くはいられないだろう。まずはそのことを理解するべきだ。
なによりも大切なのは、自分自身に嘘をつかないこと。強くいなければと無理をしていないだろうか。心や身体が発するサインに気がつかないフリをしていないだろうか。必要なのは、認める勇気なんかではなく、素直であること、なのだ。
心が変化を求めていることを、受け入れ、行動してみよう
メンタルの不調を感じたとき、私たちは無意識のうちに罪悪感に駆られる。「自分の心が弱いからだ」「好き勝手なことはできない」と、助けを求めている心に向かって、さらなる負荷をかけようとする。でも、本当に必要なのは、そんなことではない。
櫻本氏は、心がなんらかのサインを出した瞬間を「自分の生き方に変化が必要なとき」だと捉えていると語っていた。
櫻本「自身に対しても他者に対しても、メンタルの不調を『甘え』と捉える人はまだまだいます。ですが、わたしは、メンタルが不調だと感じたら、それはなにかの変化を求めているタイミングだと思っているんです。なんらかの現状が、心にも身体にも大きな負担を強いているのだから、心地良い方向へと変化しなければならないのだろう、と。もちろん、変化するのは時として痛みを伴います。楽な選択肢ばかりではないでしょう。でも、現状の自分は『苦しい』と声を上げているんです。その声を無視し、想いにフタをするだなんて絶対にやめてほしい。『苦しい』と感じること、それを認めることは甘えでもなんでもないのです。それをいったん認めた上で、何のために、どのようにして新しい変化を起こしていくのかに意識を向けてみてください」
たとえば、職場環境にストレスがあるとき。我慢するのか、部署を異動するのか、転職するのかなど、多くの選択肢がある。変化を恐れると、ついつい我慢を選択してしまうだろう。異動や転職は、不安や恐怖を伴うものだから。
でも、本当にそれで良いのだろうか。心は「離れたい」と明確なサインを出している。もちろん、考え抜いた末に出した結論は、どれも正解だ。ただ、もしもそれが、自分自身と向き合うことから逃げた末の結論ならば、考え直すべきではないのだろうか。
──なぜ、自分は今「苦しい」と感じるのか?
その問いと、真摯に向き合ってみてほしい。自分自身や他者と対話することから、どうか逃げないでほしい。
櫻本「もしも友人や同僚、部下など、近くに悩んでいる方がいたら、その方の対話相手になることも大切です。相手がどんなことを考え、何に喜びを感じているのか、想像を巡らせてみる。例えば、どんなことにモチベーションを感じるか、というのも人それぞれ異なります。人に対する影響力を持ちたい“権力動機”が強いのか、目的を達成する“達成動機”が強いのか、リスクを取りたくない“安全動機”が強いのか、人と協調していたい“親和動機”が強いのか。これらを理解するだけでも、自分や相手がどうしたらストレスを抱えずに仕事に取り組むことができそうか、俯瞰して見られるようになるはずですから。自分や他者に対する解像度を上げることで、お互いにより心地よく過ごすことができるようになるはずです」
生き方、暮らし方、考え方、働き方……あらゆる場面で「多様化」が語られるようになった。私たちは、自らで選び取ることができるようになったのだ。今はまだ難しいと感じてしまうかもしれないが、わたしたちは向き合うことで自由になれる。
シンプルな考え方で、想いで、良い。「どう生きたいのか?」と心に問いかけ返ってくる自分からのレスポンスに、耳を傾けてみてはどうだろう。
ここがポイント
・ 文化的背景として、日本人は「自分自身と向き合うこと」に慣れていない
・ まずは、生活習慣・気分の変化・身体状態の変化の3要素に着目して自分を眺めてみると良い
・ 1日1分からでも、自分と対話する時間を作る癖を付けるのが有効
・ メンタルの不調が感じられたタイミングには、なんらかの変化が必要かもしれない
企画:阿座上陽平
取材・編集:BrightLogg,inc.
文:鈴木詩乃
撮影:戸谷信博